八月二四日 もし (二〇一一年 ひとしずく七三)
イエス様にこう聞かれたら、わたしはどう答えるだろう。「もし、わたしがあなたに、地上での人生をもう一度与えることができるとしたら、どんな人生にしてほしいかい? 酒癖の悪いお父さではなく、家庭内暴力も何もなくて、裕福な家庭で育てられたいかい?」
平和で円満な家庭で育てられるのは、さぞすばらしいことだろう。それこそ、わたしが子供のころに夢見てきたことだ。父が酒に酔っている時は、いつ母やわたしに茶碗を投げつけてくるかと、びくびくしていたものだ。
でも、もし、そのような申し出をイエス様がしてくださるなら、それを受ける前に、わたしはいくつか質問したいと思った。
「イエス様、そんな家庭で育てられたら、どんなにすばらしいことかと思いますが、一つ尋ねたいことがあります。父が、お酒に酔うとよく暴力を奮いました。そんな時、飛んでくる彼のこぶしや茶碗から小さなわたしを守るために、母は、わたしを体で覆って、彼女の背中で父の暴力を受けてくれました。わたしはそんな母親の姿から、尊い愛を学ばせていただきました。
その後、困難や災いに遭遇する時、あなたが母親のようにわたしの保護となり、隠れ家となってくださることも学ばせていただきました。そのおかげで、毎日泣きたくなるような日々を過ごさなければならない人たちの気持ちをいくらか理解し、同情できるようになりました。もし、わたしが、平和な家庭に生まれたとしたら 、わたしはそのようにあなたの慈しみにすがることを、早くから学んだり、似たような境遇にある人の気持ちを理解することができたでしょうか?」
イエス「わが子よ、それは難しい。もし、あなたがあのような父親の下で育たないのだったら、あなたの母親も別な人が備えられるだろう。わたし自身も、人の弱さを思いやることのできる者となるために、人の通っている悲しみを味わう必要があったように、人は苦しみを通してしか、苦しむ者の気持ちを深く理解できないのだ」 。
もし、主がそう語られるなら、わたしはきっとこう答えるだろう。「わかりました。イエス様、もし人生をもう一度初めからスタートさせていただけるなら、何も変えてくださらなくて結構です。ただ、わたしの祈りは、その同じ人生を、もっと快活に、賛美に満ちて生きるようになることです」。
あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。わたしがこれを数えようと すれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。(詩篇一三九篇十六~十八節)
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。(ヘブル四章十五節)
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた… (イザヤ五三章三節前半)