八月二一日 天への進級 (二〇一四年夏 ひとしずく一六一四)
最近、親しかった人たちが、この世での旅路を終え、天のふるさとへ帰られました。人の命がいかに儚いかを思って悲しくな りますが、 私たちの行くべき先が素晴らしい天国であることを思うと、希望が与えられます。主は素晴らしい約束をいくつもしてくださっています。
兄弟たち よ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして 変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、 聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。 死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。(第一コリント十五章五〇~五五節)
イエス様が 下さった永遠の命ゆえに、私たちは死に対する勝利を持っています。死が、勝利でありイエス様の永遠の命に飲み 込まれたのであるなら、どうして死んで動かなくなった体について嘆く必要があるでしょう。
聖書には、イエス様を信じる者には永遠の命があると、何度も何度も語られています。
彼(イエス)を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下 さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではな く、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。(ヨハネ三章十五~十八節前半)
よくよく あなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死 から命に移っているのである。(ヨハネ五章二四節)
わたしの 父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるで あろう。(ヨハネ六章四〇節)
よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。(ヨハネ六章四七節)
イエスは 彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる 者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ十一章二五、二六節)
イエス様を信じているのなら、永遠の命を持っているのであり、いつまでも死なないと主は約束してくださっています。亡くなった愛する人は、今は苦しみも痛みもない、世界へと移り、幸せでいます。そして、きっと遺骨やお墓を前にして悲しむ家族の人たちに、霊 の世界からその人は、あの千の風の歌にあるように「わたしはここにはいません。死んでなんかいません。」と語りかけていることと思います。たとえ、その人が、どんな悲惨な死に方をして、まるで敗北に人生が終わったように見えたとしても、変わりません。イエス様ご自身の死 なれ方は、惨いものでした。茨の冠を頭に乗せられ、何度も鞭打たれ、なじられ嘲笑され、十字架上で罪人として処刑されたのです。また大勢 の数えきれない殉教者達も、火あぶりにされたり、鋸で切られたり、様々な状態で死を迎えました。彼らの最期もまた、悲惨なものだったので す。しかしそういう人たちも皆、このちりから造られたボロボロの体を脱ぎ捨てて、天の故郷に召され、今は幸せでいます。
死とは、一時の魂の宿り場、仮庵から抜け出るということです。救われた魂は、創造者の元に引き上げられ、輝かしい霊の世 界の内に生き続けるのです。
地上を離れイエス様と共になった魂は、主イエス様の許可を頂いて、霊の世界から、地上に残してきた愛する人たちを支援するという任務を頂いてわくわくしているかもしれません。
この地上の学年を終えて、次の学年へと進級した愛する人たちのために、感謝し、主を喜び称えようではありませんか。