八月一日 脱落して得た勝利 (二〇一二年八月 ひとしずく八九三)
「神の上への道は、下への道」
先日、子どもたちと一緒に山登りをしました。秋田の実家のすぐそばにある山です。標高一五〇〇メートルほどの山で、それほど高いわけではないものの、普段、運動をしていないなら、かなりきついものになりえます。
私は、子どもたち四人を連れて頂上を目指し登っていました。しかし、しばらくすると、一人の子が、「もう降りる」と言い始めたのです。ほかの子どもたちと私は、その子を何度も励ましたり、手を引いたり、背中を押したりして、なんとか皆で頂上に立とうと一生懸命でした。しかし、ついに、その子はもう登れないとしゃがみ込んでしまったのです。
皆で山頂に立ち、苦難を乗り越えたあとの達成感の喜びを子どもたちに味わってほしいと思っていた私は、あきらめるのはとても残念に思いましたが、主が、無理強いせずに、その子に合せるようにと語りかけてくれました。
そして、私は子どもたちに次のように提案したのでした。「もうベストを尽くしたのはわかるから、じゃ、ここまでにして皆で戻ろうか?」と。
すると、その四人のうちの一番上の子が、途中であきらめたくないほかの二人の子の気持ちを察して、「じゃあ、私がこの子と一緒に下山するから、パパとあとの二人は山頂まで登ったらいいよ」と言いました。私は、別行動をとることなど考えてもいませんでしたが、そういう選択もありかなと思い、私たちは二手に別れ、一つのチームは山頂に、一つのチームは下山することになったのでした。
私と二人の子は、なんとか無事に山頂に到達しました。そこからの眺望は素晴らしく、またなんと言っても達成感がありました。しかし、彼らと別れてから山頂までの道のりが、かなりきつかったので、あそこで下山させるのは正解だったかなとも思いました。
また、途中で下山した子どもたちが、落胆していないといいがと気がかりでした。主に彼女を慰め励ましてくださるよう祈っていました。そして主はそのようにしてくださったのでした。
途中で登れないとしゃがみこんだ子は、きっとがっかりもしたことでしょうが、日頃の運動不足を痛感し、その翌日、運動をして体を鍛える決意をしたそうです。その子はほかの子に比べると、普段あまり運動をせずに、いくらみんなが健康のために運動するよう励ましても、なかなか重い腰を上げようとはしませんでした。しかし主は思いもよらない方法で、彼女に運動する気を起こさせてくださったのでした。
また彼女に、きっと主は色々と語りかけてくださり、成長を促してくださったと私は思っています。皆と別行動をするように導かれることがあること、自分は登れないと正直に伝えること、一人のようであっても主はそこに慰めと励ましを与えてくれること、降りることですべてが終わりではないこと、神様の用意された自分にとっての山というものがあること、それぞれがその到達しえたところから上に向えばいいのだということなど。
私たちは、山の上に立ったかどうか、山頂まで上り詰めたかどうかということを気にしがちです。しかし、目に見えないいくつもの山がたくさんあります。そしてその目に見えない山は、実は謙遜になって自分のプライドを捨てて低くなることによってしか登れない山なのかも知れません。
主は…言われた。「わたしは…人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(第一サムエル 16章7節)
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。(詩篇 34篇18節)
主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。(詩篇 147篇3節)
各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。(ローマ 14章5節)