九月三〇日 人は何で生きるか (ひとしずく六〇三)
神様から、双子の赤ちゃんを産んだばかりの母親の魂を天国に連れてくるようにと言われた天使がいました。しかしその母親は、迎えに来た天使に、子供のためにどうか生かして下さいと嘆願したのでした。
天使はその母親や子供たちをかわいそうに思って、神様の言いつけに背いて、母親の魂を天国に連れて来ることができませんでした。そして天使は神様からの言いつけに従わなかった罰として、地上で「人は何で生きるか」を学ぶまで、天国に帰ることはできないことになったのでした。そして子を産んだばかりの母親は神の計画通り、天に召されました。
これはトルストイの「人は何で生きるか」というお話です。私たち人間の目で見たら天使のしたことは決して悪いことではなく、むしろ思いやりのある正しいことのように思えます。しかし、この物語は、神様の御計画とは人知を遥かに超えた深いものであること、そして神様は決して間違いを犯さない方であることを教えてくれるのです。
天使はその後、人間としての生活をしている間に、例の双子が、村のある赤ん坊を産んだばかりの優しい女の人に引き取られるのを知ります。この女性の子供は幼くして死んでしまいますが、双子の赤ちゃんは、彼女が母乳を与え、良く世話されて成長するのでした。そして天使は「人は何で生きるか」ということを悟るのです。これはその時の天使の言葉です。
「ふたりの孤児が生きてゆけたのは、その女の心に愛があって、彼らを憐れみいつくしんでくれたからです。こうしてすべての人は、彼らが自分で自分のことを考えるからではなく、人々の心に愛があることによって、生きていけるのです。私は、人が自分で自分のことを考える心づかいによって生きているように思うのは、それはただ人間がそう思うだけにすぎなくて、実際はただ、愛の力だけによって生きているのだということがわかりました。愛によって生きている者は、神様の中に生きている者で、つまり神様はその人の中にいらっしゃるのです。なぜなら、神さまは愛なのですから。」
(「人はなんで生きるか」トルストイ著 中村白葉訳河出書房新社発行)
私たちはともすると、自分で考え、決断し、自分の力だけで生きていると思い込んでいるところがあるのではないでしょうか?しかし、このトルストイのお話のように、人はただ愛によって、愛の力だけによって生きていることを聖書は告げています。愛なしには、生きる力も赦す力も、そして希望も、美しさも喜びも感動も歌も、何一つなく、人間もこの世もすべて存在すらしないことでしょう。私たちは、愛によって生きているのです。いえ、生かされているのです。それは神によって生かされているということです。神は愛です。なぜなら、愛こそ、私たちの生きる目的であり、命なのですから。
愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(第一ヨハネ四章七、八、十二節)
いつまでも存続するものは、信仰、希望、愛、この三つである。これらのうち最も偉大なものは愛である。(第一コリント十三章十三節)