八月二九日 土地改良 (二〇一四年夏 ひとしずく一五九五)
体調がおもわしくない日が続いている村のFさんが、耕耘機を手離すということを聞いたSさんは、Fさんに私たちのことを紹介して、私たちがその耕耘機を使えるようにしてくれました。それまでSさんが私たちに使わせてくれていた耕耘機は、油漏れが始まっていたからです。今日は、Fさんのところから頂いた耕耘機で、息子と私で、Oさんの家の前の畑を耕すことにしま した。ところが、 その畑は調子の良いはずの耕耘機の刃がなかなか入っていかず、奮戦となりました。それは、しばらく耕していなかったので、芝生のような雑草の根が一面にしっかりと生い茂っていて、耕耘機の刃がその雑草の根にからみついてしまうのでした。また石ころも土にたくさん混じっていて、それが耕耘機の刃に当たってはじける音がします。そんな具合なので、刃が土の深くに入っていかず、耕耘機のハンドルの部分が急に跳ね上がってしまうのです。私は、自分の体重で耕耘機が飛び跳ねるのを押さえたのですが、なかなかうまくいきません。途中であきらめそうになりましたが、これは、敵が戦ってあきらめさせようとしているのだと思い、負けてなるものかと挑戦しました。
息子と話して、今回はとにかく深く耕すことができなくとも、まず 雑草の根を断ち切り、それを取り除くということを目標にしようということになりました。そして主に祈って、何とかその目標を果たすことができました。その後、去年まで使っていたという畑地も耕耘機で耕してみました。すると、さっきまで暴れ馬のようだった耕耘機は、片手で操作できるくらい、スムーズに土を耕してくれました。きっとこの土地も畑地として耕されるまでは、先ほどの畑と同じ状態であったと思いますが、石と雑草が取り払われ、固い土地が何度も耕されることによって新しい畑に変身したのでしょう。
私は、この二つの畑地の違いに驚き、ちょうど今朝、デボーションで読んだルカの福音書にあるイエス様の種のたとえ話を思い出しました。
色々な土地の上に蒔かれた種の話をイエス様は語っています。その中で、良い地以外の、道ばた、石地、いばらの地に蒔かれた種のどれも、種が蒔かれても実を実らせるには至りませんでした。道ばたに落ちた種は人に踏みつけられ、また鳥が来て食べてしまい、石地に落ちた種は、土が深くないので、芽は出すけれど、日が出ると焼けてしまい、茨に 落ちた種は、その成長を茨がふさいだので、実を結びません でした。(ルカ八章五~八節)
イエス様がこのたとえ話を通して、教えたかったことは、種は神さまの言葉で、土地は人の心の状態であり、私たちは神様の真理に対して受容的で、飢え渇きを持ってその真理を求めるべきだということです。
しかし、今回は、この二つの畑を耕して、一つ面白いことに気づき ました。これらの踏み固められ、石がいっぱいで、雑草の根が深い土地でも、あきらめずに耕し続けるなら、新しい土地に造り変えられるということです。それは一年、二年の短い期間では達し得ないかもしれませんが、年を重ね、絶えず働きかけることによって、土は柔らかくなり、種が根をはりやすい、 そして芽が成長して実をもたらしやすい土地に変わることはできるわけです。
自分の浅はかさ、心のかたくなさ、誘惑に簡単に負けてしまう弱さ、それらを持っているから と言って、もう自分には望みはないということはありません。イエス様は、種である神様の言葉に対する正しい態度について教えてくださいましたが、良い土地のような心を持っていないなら、望みがないということを言わんとしていなかったことは確かであると思います。土地に象徴されている心は、変わりうるのです。しかも深いところまで、全く変わるのです。神様が私達の固い心を耕し、柔らかにしようとする時、それ を拒まず、信仰をもって受け入れることができますように。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉か ら、石の心を除いて、肉の心を与える。(エゼキエル三六章二六節)
あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。(エペソ四章二二~二四節)
あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完 成して下さるにちがいないと、確信している。(ピリピ 一章六節)