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2023年8月28日

八月二八日 蛙 (二〇一一年 ひとしずく81)

人がたくさん集まっているところにいるのに、かえってさびしい思いをすることがありますか? 自分を理解してくれている人がいないように思えたり、心の中がなにか満たされないように感じたりすることが・・?
 わたしはそんな時、夜になって蛙の鳴き声が聞こえてくるのを待ちます。夜になると、昼には騒音で聞こえなかった蛙の声が聞こえてきます。彼らの創造主を賛美する歌がわたしに慰めをもたらします。彼らが天に向かって、歌い続けるのをじっと聞いていると、わたしの中にも賛美の気持ちが涌いてきます。蛙の声がもっとよく聞 こえるように、わたしは真っ暗な外に出ます。そして草むらまで歩きます。目がだんだんと慣れてくると、木々のシルエットが浮かび上がってきます。そして耳が蛙の声だけに集中できてきます。すごいです。いろんな鳴き声、いえ、歌声がコーラスとなって聞こえてきます。その歌声に聞き入っていると、暗闇も気にならなくなり ます。さまざまな思いわずらいが遠のいていくのがわかります。
 人がどうわたしを見ているかなども関係なくなってきます。創造主であり、全能の神、そしてわたしのためには喜んで死んでくださるほどの愛を持っている方の存在が近くに感じられるなら、他の人が成功していて、自分が失敗しているように見えることなど、気にならなくなります。いずれにせよ、その愛の神がこれほど自分を愛 して下さっている時、「成功」や「失敗」など何だというのでしょう?

神がわたしを愛していてくださり、わたしが生きるようにと、あがなってくださり、そんなにもやさしく愛して下さっている時、自分の今おかれている境遇も、自分自身についても気にならなくなります。

でも、そのためには、自分の思いを、主の愛に向ける必要があります。わたしの求めているものが、何よりも主との交わりとなる時、起こるすべてのことも、自分のことも、周りの人のことも、気にならなくなります。そしてこの主との親密感を他の何ものとも交換したくない気持ちになります。


神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。(詩篇四七篇七節)

わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。

それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。・・・あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう(使徒行伝二章二五~二八節)

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