八月二七日 種たちの物語 (二〇一一年 ひとしずく七二)
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ十二章二四節)
最近畑に種を蒔きました。ちょっと種たちのことを想像してみてください。
農夫の持っている袋の中には、種たちがひしめきあっています。わいわいがやがやおしゃべりしていますが、実は、彼らは、地に埋められる時がいつ来るかと、恐れているのです。それが避けられないことだということも知っています。仲間のうちの誰一人として経験したことのない、この未知のことへの恐れ。仲間から離れて、一人暗い地の中に埋められるのは、誰も好きではありません。誰もが恐れを抱いていましたが、彼らはあまりそのことについて話したがりませんでした。
ある日、この袋の中に、ついに、農夫の手が差し入れられました。そしてその手に捕まれた種は、仲間から離れ離れになり、畑に蒔かれました。それらの種の一つ一つは地中に埋められ、土をかぶせられました。袋に残った種たちは、いなくなった仲間をかわいそうに思い、また、自分たちが、まだ土の中に埋められていないことでほっとしました。でも、いつ自分にその時がくるかわかりません。心配です。
それから何年かたちました。袋の中にはもう誰もいません。ただ、畑に立っている立派な木々が、楽しそうに話をしていました。みな、大きくて、実を豊かに実らせ、誇らしげに見えます。彼らの枝には、鳥たちが巣を作り、さえずっています。木々は、自分たちの思い出を懐かしそうに話し始めました。「あの時は、袋の中で、誰が最初に土に埋められてしまうか、みんなびくびくしていたもんだ」。
わたしたちは、土の中に埋められる種のようです。神様はあなたという種を袋から取り出して、あなたの宿命、あるいは召命という畑に埋められたでしょうか? あるいは、それに抵抗して、まだ、袋の中にとどまりたいと願っているでしょうか? 袋の中にとどまっているなら、あなたは一粒のままです。しかし、土の中に埋められて死んだなら、豊かに実を結ぶようになります。しかし、種が一度土の中に埋められても、「土の中はいやだ」と言って土から、はい出てくるようなら、実は結べません。
使徒パウロは、こう言いました「・・・わたしは日々死んでいるのである。」(第一コリント5:15)
あなたは、神に従うことは、土の中に埋められた種のようで、自分にとっては「死ぬこと」と同じだと思っているかもしれませんが、それこそが、長い忍耐の末に、立派な花と実をもたらす道です。イエスは、こう言われました「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。十字架は磔にされて、死ぬ場所です。しかし、復活の栄光ある命は、十字架の死を通してしか与えられないのです。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。(ルカ九章二三、二四節)
中には、困難で孤独な「土」の中からでて、あるいは「十字架」から降りて、したい放題の生活をすることが、自由で祝福された人生だと思う人がいるかもしれません。しかし、実は、本当の自由と祝福は、したい放題に生きることにあるのではなく、自分に対する神のご意思を受け入れ、それに譲渡して従うことの中にあります。