八月二三日 「すべて」 (二〇一四年夏 ひとしずく一六一七)
口語訳の詩編一四五篇には、「すべて」という言葉が、九回出てきます。
主はすべての者に恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。(九節)
主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。(十四節)
あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。(十六~十八節)など。
私は、詩編のこの興味深い箇所について聖書のクラスで取り上げて、以下のような話をしました。
「すべて」という意味は、もれなくということです。主は私たちすべての者に対して憐れみを持っておられます。ですから、あなたも、あの人も、この人もということです。そして、この私もということです。
人は困難の最中にあって、今までにないほどの試練に遭うと簡単に、神様に見捨てられたように感じてしまいます。自分はもともと神様の愛にも祝福にもふさわしくない者だから、厳しい仕打ちを受けても当然だ、と挫折し、打ちひしがれることに甘んじてしまいやすいのです。
しかし、上記の詩編の作者の声明は、そんな気持ちとは異なります。
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます」この「すべて」には、私も含まれているでしょうか。その通りだと思います。
主の憐れみは、この私にも、こんな状態の私にも注がれているのです。それも日常に起こるすべての道において、主は恵み深いのです。感謝です。
こんなふうに言っている私も、実は今朝、コンピュータがどうしても起動しないことがわかり、はじめは必死に祈りながら、何とかなるという思いでいたものの、聖書クラスが終わってから、コンピュータショップに行ってコンピュータの具合をみてもらうと、何と、数時間や一日で直せるものではないと言われました。私はできたら三日後の秋田に帰る日までに直してもらえたら、と願っていたのですが、どうやらその期日までに直せる保証はないと伝えられたのです。しかも、修理代は安くはありません。
まぁ、購入してから四年近く経っており、部品を交換しなければならないのは仕方のないことですが、よりによって来月のキャンプの準備に忙しい最中に、このような状態に遭遇するというのは、あまり主の愛を感じるものではありません。私は落胆に襲われていました。
ついさっき、聖書のクラスで、主の「すべて」に対する愛を忘れるべきではないと語ったにもかかわらず、簡単に落胆してしまう自分がおかしく思えました。主は、世話してくださるとわかっていても、落胆の霊に襲われているのがわかりました。
私は妻に電話して、状況を説明しました。すると彼女は、すぐに私の落ち込んでいるのを察し、直るまで息子の今使っていないコンピュータを借りるのはどうかと提案してくれました。これは、全く思いがけない解決策で、息子に連絡したら、すぐに承諾してくれ、早速、このひとしずくをその息子から借りたコンピュータでやっています。
主は確かに、私のような「倒れんとする者」を支えてくださったのです。今朝から何度も祈り、助けを呼ばわっていましたが、主は答えてくださいました。感謝です。
主はまさしく、すべての者を支え、すべての道に正しく、すべてのみわざに恵み深い方なのです。試練の最中において、この偉大なる主と、その約束にしがみつく者は、幸いです。
すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。(詩編一四五篇十八、十九節)