八月十九日 偉人たちに囲まれて (二〇一四年夏 ひとしずく一六一〇)
ルカの福音書を読んでいると、弟子たちが何度も、誰が偉いかということで議論していたことがわかります。ルカ九章には、 次のようにあります。
弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかとい うことで、議論がはじまった。(ルカ九章四六節)
また同じルカの福音書の二二章には、次のようにあります。
それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言っ て、争論が彼らの間に、起った。(ルカ二二章二四節)
人々から聖ペテロ、聖ヨハネなどと呼ばれている使徒たちも、こうした聖句から、実は、あまり普通の人と変わらない弱さを持っていたことがわかります。
イエス様の教えを身近で聞いていても、誰が偉いかという話になってしまう。
そんな弟子たちに、イエス様は偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者にならなければならないと語り、最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちの足を洗って、その見本を示してくださいました。そして最後には、自分の命を十字架で捧げることによって、自分を無にして仕えることの究極の見本を示されたのでした。
優れた師を持っていても、その見本、手本だけでは、人は変わらな い。示された愛が、御霊によって、理解し、感じ取られなければ、変わる力は私達の内にありません。この自分達にできないことを、神様の御霊は、為し遂げられます。感謝です。
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(第二コリント三章十八節)
ところで、今、私が泊まらせていただいている所の外では、Jさんが、大工仕事をしています。彼は仕える見本で輝いている一人です。彼は素晴らしい ミュージシャンですが、必要があれば、どんなことでも、やる人です。Jさんは今、皆で使う洗濯物干し場のの屋根が台風で飛ばされてしまっ たので、その修理を一生懸命やってくれています。彼は、ここに住んでいる人や、ここに訪れる人たちのために、この場所が快適で、良い状態 のものとなるように、自分にできることは、何でもやるのです。こうした人こそ、主の言われた、偉い人なんだろうなと思います。
イエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、 あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、 給仕をする者のようにしている。(ルカ二二章二五~二七節)
考えてみると、私はこうした人に仕える偉人たちに囲まれています。私を送り出すために、料理をし食糧を持たせてくれた 娘、スーツケースを用意し、バスの予約をとってくれ、ひとしずくの小冊子を渡す人毎に準備してくれた妻、私のいない間、 私に代わって畑仕事と薪の仕事をしてくれる息子、イラストを描いてくれる娘達、バイブルクラス後の昼食のために、料理し給仕してくれる人 たち、賛美を導いてくれる人たち、掃除してくれる人、お皿洗いをしてくれる人、校正してくれる人、 経済的に支えてくれる人、私の気づかないことについて助言してくれる人、励ましてくれる人、ほほ笑んでくれる人、そしていつも祈ってくれている人たち・・・。
今、私がこうして生きている背後には、このようにたくさんの仕える人たちに支えられていることを改めて思い感謝しました。私は偉人たちに囲まれており、その人たちに支えられているのです。これはまさし く、主の愛に浴している状態であり、何という恵みでしょうか?
それらの尊い人たち一人一人について、主に賛美を捧げます。