八月十七日 解放 (二〇一四年夏 ひとしずく一六〇八)
私はクリスチャンになる前はひどい恥ずかしがり屋でした。人が自分をどう思うかが気がかりで、赤面恐怖症だったのです。そういう面で、私にとってはあらゆることがつらいことでした。特に音痴でもあったので、音楽の歌のテストの時は、それはそれは大変でした。
人前で話すことはもっての他で、ただ見知らぬ人と道ですれ違うだけで顔を真っ赤にしていたものです。私はそんな状態から自由になりたいと思い、自分から進んで、話すことにチャレンジしたりもしましたが、なかなかそれは克服で きませんでした。今でも時々、自意識過剰になってしまうことがありますが、多くの場合、もう人を恐れることはなくなりま した。それはやはり、聖霊の力なの だと思います。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。(第二コリント三章十七節)
自分のことを相手がどう思うか構わなくなったのは、自分のことではな く、相手に、ただイエス様のことを知ってほしいと願うからです。神様の恵みによって、神様と大勢の人達から頂いたたくさんのものがあります。それを他の人たちに、ただ分け合いたいと思う時、自分のことをあまり意識しなくなったのです。そして相手が何を必要としていて、イエス様は、その人に何を与えようとしておられるのだろう?ということに思いが集中していると、自分のことをいつのまにか忘れてしまっているのです。神の国と神の義を第一に求める事によって、 私の心の願いは叶えられ、赤面恐怖症から解放されたのでした。
何かに捕らわれ、そこから解放されたいのなら、真理を知り、それを信じることです。真理とは神様の言葉です。神様がいかに私たちを愛しているかという声です。そしてその神の愛が、私たちをあらゆる恐れから解放してくれます。自由にしてくれます。
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八章三一、三二節)