八月十五日 主の恵みと慈しみ (二〇一二年八月 ひとしずく九二〇)
十八になった娘が、昨日アメリカに出発しました。アメリカにいる長女からから、夫が仕事で長い間、留守なので、一か月ほど、赤ん坊の子守りを兼ねて誰か来てくれ ないか、との要望に応えてのことでした。
親としては、いくら向こうに長女がいるとはいえ、この娘が初めて アメリカにそれも一人で行くということに、懸念がありました。しかし、彼女には長女のところに行ってくるという強い願望があり、行くこと になりました。
数年前までは恥ずかしがり屋で、あまり人前に出るのも苦手だった この娘も、自分から社会に出てアルバイトをするようになったり、その後は、車の免許を取って、今では片道三時間もの秋田の山道を、母を病院に連れて行くほどになりました。そして昨日はアメリカに一人で旅立ったのです。
この娘が、いつの間にこんなチャレンジャーになったのだろ う・・・と考えていました。親としては、この娘にはまだまだ無理だろうと思うことも、彼女は平気でやってのけるのです。私たちの心配は取り越し苦労なのでしょう。主は、いつも彼女の前にチャレンジを置き、彼女を導き、そしてその際には、恵みと慈しみとを与えてくださり、彼女を成長させてくださっているのです。親にとっては、子供のチャレンジには心配が伴い、複雑な気持ちなのですが、やはり最終的には、子供たち一人一人が、イエス様と個人的なつながりをもって、その主の導きに従って生きるようになることがゴールなので、それを喜ぶべきなのでしょう。そして、それは子供に限らず、全ての人がそうなるべきなのだと思います。
主がいかに恵み深く慈しみ深い方であられるかを知るには、ただ他の人から聞いて学ぶことはできません。ただ、主はそのような方だということを人から聞いて知識として持つことはできても、自分を主の御手に委ねて初めてわかるものというのがあります。
親が、あれしたらダメ、これしたらダメと言っている状態だと、子供は自分から試してみるチャンスが与えられません。もう十代になったら、 あらゆることを試みてみたいのです。一応知っていることは言葉で教えてあげても、後は、その本人がやってみる事によって、学ぶことが必要だと思うのです。
「(主の)恵みといつくしみとがともなう」という言葉があります。わたしはその聖書の箇所を子供に読んで聞かせることはできます。そしてその意味を教えることもできるし、自分の体験談を話して聞かせることもできます。しかし、実際に主が大変な時に助けて下さる方であるということを身を以て体験することからしか学べない事がらがあります。
そして主は、ご自分の愛を示されるために、どんな時でも離れず捨てることのない愛が、確かにあることを示し、体験してほしいために、そうした試練と思えるようなことを通過させることがあるのです。
主はどこかでそうされたいのだと思います。聖書の本の中だけの言葉や面白いお話、礼拝の説教を越えた領域、いえ主の創造された世界のどこにおいても満ちている神様の愛を体験してほしいのだと思います。私達の生きている毎日の生活の中に生きて働く神様の御手に導かれること、 神様が実際にその腕をもって自分を抱えてくれること、供給してくれること、こころに語りかけてくれること…これら一つ一つを体験させたいのです。そうでなかったら、この世で生を受けるということの意味が無くなってしまうか、半減してしまうことでしょう。
という私も、何度も子供には、どうしても過保護の態度をとって失敗してきたように思えます。主の導きに愛する者を委ねる。時にはそれはアブラハムが息子のイサクを主に差し出すようなものに思え、大きな試練さえ感じる時があります。
でも、主は、主の御手に委ねたものに関して、最善をして下さいます。そして主が用意しておられる試練を一つ 通過する度に「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう…」(詩篇二三篇六節)という言葉を子ども自身、一つ体験する機会を持ち、その聖句の真の意味を理解し始めることでしょう。
わたしのすることは、そばに一緒にいれない時でも主が共に、愛する者といてくださると信じ、一つ一つの試練、体験を通して、できるだけ沢 山の教訓を学び、主の恵み慈しみを感じとれるように、必死の祈りを捧げることだと思っています。