まことの光を見つめて

八月八日 まことの光を見つめて (二〇一二年八月 ひとしずく九〇六)

 昨夕、息子が村の獅子舞の前に、棒使いの演 技をするというので、他の子供たちと一緒に公民館の前の広場に見に行きました。それは、その地域に伝わる伝統的な踊りで、最近は演じる人が少ないからというので、村の人に頼まれて息子が引き受けたものでした。練習時間が短かった割には意外と上手に踊れていたと思います。お盆に帰省した若者たちも多く参加して、とても賑やかでした。

 その舞が終わる頃には、夕暮れから夜に移り変わろうとする空に、星が美しく輝いていました。子供が「パパ、見て!」と星を指差し、家に帰る途中も、皆で星を眺めながら歩いていまし た。

 娘が「あれ、柄杓(ひしゃく)の形をした星 座でしょ?」と尋ねました。家の屋根に少し隠れていましたが、柄杓の形をした北斗七星が見え、その少し離れた所に北極星が見えました。

 私は子供たちがすでに知っているかも知れな いと思いましたが、「この星によって、どっちが北かわかるんだ よ。この光を頼りに、人は暗い夜道でも方角がわかったし、暗い海も航海できたんだね」と話していました。そう話しながら、私はこの星たちが今までどれだけの人々を導き、また慰めや励ましにもなってきたかを思って、神様の深い知恵と愛に感動していたのでした。本当にきれいな星空でした。

しかし突然、歩いていると星が見えなくなってしまいました。街灯と車のヘッドライトの明かりのある場所にさしかかったからです。

夜空に美しく輝く星の光は、人工の光でかき消されてしまったのです。

 道を照らしてくれる街灯や車の光は便利であり、安全のために必要なものかもしれません。しかし、その便利な光が、神様が愛と知恵をもって人間に与えて下さった光をかき消してしまうのだということに改めて気づかされた思いでした。

私は、これはまるで神の光や声をかき消してしまう、私たちの自己主張、また雑念思考のようだと思いました。

私たちの生活の中で、神様はあらゆる場面において、いろいろ私たちに教え、語りかけて下さっているのだと思いますが、自分の考えやこの世の常識的、また人の意見を気にしたりといったことで、神様の声がかき消されてしまっていることが多いのではないかと思 います。

 先日、たまたま、ある人のブログを見ました。するとそこには色々な人たちの 沢山の書き込みがなされていました。そして残念なことに、そこには、自分の意見の主張が述べられており、いかにも自分が正しく、相手が間違っているということを、それぞれが大胆に述べていたのです。

 確かにそれぞれの言い分はあるだろうとは思いますが、一体、神様が何を思い、何を望まれているかについては、彼らにはどうでもいいことのように感じられました。

それはまるで、夜空の星を全てかき消す、ギラギラとした繁華街の明かりのようであり、私たちも気をつけていないといけないこと だと思いました。

 人がその知識や知恵にたよって、神を認めないことについては、聖書にいくつもの警告があります。

見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし、松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。(イザヤ五十章十一節 新共同訳)

人が見て自ら正しいとする道でも、その終り はついに死に至る道となるものがある。(箴言十四章十二節)

 人工の光は、主の光を見えなくしてしまいます。私たちの頼るべき光は、主の光です。その光は、人工的な光が少ない所ほど、よく見えるものです。人工的な光が眩しい所では、どんなに目を凝らしてみても見ることはできず、したがって私たちは主の 光を見るために、 まず人工的な明りから逃れるという努力をしなくてはならないと思います。つまりそれは、自分の考えや意見の主張から離れて、静まって、主の思いに集中するということです。そうして初めて主の優しい光が見えてくるのだと思います。

主の光は、私たちの人生の歩みを照らす命の光です。そのまことの光を見つめて生きて行きたいものです。

心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言三章四、五節)

自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。(箴言三章五~八節)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇一一九篇一〇五節)

すべての人を照すまことの光があって、世に きた。(ヨハネ一章九節)

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