若い時のくびき

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2023年8月7日

八月七日 若い時のくびき (二〇一二年八月 ひとしずく九〇〇)

 
自分の子供たちを見ていると、色々と大変な時期を通過している子供たちがいます。その試練を取り除いてあげられたら、という親の同情心が湧きますが、ただ祈り主に委ねるしかない時もあります。
考えてみると私も悩みや問題多き若者でした。
若い時というのは苦悩の多い時期なのかも知れません。「若い」の「若」という漢字は、「苦しい」の「苦」という字に似ていると誰かが言っていましたが、なるほどと思います。
よく年をとると、若さをうらやましいと思うことがあります。そして、若い頃に戻りたいと言ったりしますが、それは外見的な美しさとか、体力や健康といった若さの良い部分だけを見ての思いではないかと思います。私より年配の友人は、「若い頃に戻ることを許されたとしても、戻りたいとは思わない」と言っていました。若い時は苦労ばかりで、今の方がもっと人生を楽しめるのだそうです。
私も同感です。自分の若かった頃のことを思うと、どっちに行ったら良いのかわからずに沢山悩み、失望、絶望の連続でした。何よりも主を知らないことによる無知や傲慢さなど、恥ずかしきことの数々・・・未熟さと思慮深さの欠如ゆえの間違いはクリスチャンになってからも沢山あります。
それらの苦しみや失敗があって、今の自分があることを思うと感謝ですが、もう二度と以前の頃に戻りたいとは思いません。
主と出会い、永遠の命の内に生かされて以来、年を重ねるごとに、ますます主の愛と真実に感動させられています。それが素晴らしいところです。確かに今も多くの問題が起こりますが、今はイエス様を知っているので、その苦しみは比較にもなりません。
とはいえ、若い時の苦悩というのは、確かにとても大切で必要なものであったということだけは認めざるを得ないのですが・・・。
 ところで、私は「苦」という漢字を見て、ふと、「艹」はイエス様が頭にかぶらされた茨の冠、「十」は十字架、「口」は丘のように見えると思いました。つまりゴルゴダの丘で十字架につけられたイエス様の御姿です。
 そして「若」の「ナ」の部分は、十字架が担がれて斜めになっているのを想像するのです。つまりゴルゴダの丘に十字架をかついで歩かれたイエス様の御姿です。
「若」は「苦」に向かい、そして「苦」の後に待っていたのは、「復活」という輝かしい栄光でした。
主が復活という栄光に至るには、十字架を担いでゴルゴダの丘に向かうという、「若」の過程、そしてゴルゴダの丘にて十字架での死という「苦」の過程が必要でした。
それと照らし合わせて考えてみると、若者は今「若」の過程、つまりたくさんの苦悩を背負ってゴルゴダの丘、「苦」に向かっている時なのかも知れません。それは人生が形作られていく上での必要不可欠で大切な過程なのだと思います。したがって、かわいいわが子や若者たちの試練も苦悩も、安易に取り除いてしまうのではなく、祈りつつ主に信頼しているべきなのでしょう。
考えてみると、聖書に出てくるヤコブの子ヨセフもダビデも、ダニエルも皆若い頃、先が見えず、暗いトンネルにいるような大変な試練の時期がありました。それは絶望的に見え、自分の人生が早くもそこで終わってしまうかのように感じられたことでしょう。しかし、聖書を読めばわかることですが、神の計画は彼らの予想とは全く違いました。彼らの味わった苦労は、彼らを謙遜にし、信仰を鍛え、神に近くし、将来の彼らの任務のために、必要不可欠な訓練であったのです。
だから若者たちにぜひ、覚えていてほしいと思います。その暗いトンネルにいるような苦悩の日々は、決して苦悩に終わらないということを。そして、その苦悩とは神の訓練であり、その訓練はやがて、自分や自分に関わる人々の人生に、平安な義の実を結ばせてくれるのだということを。
 
人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。(哀歌三章二七節)
 
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。(へブル十二章十一節)
  

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