八月六日 やかましい鐘、騒がしい鐃鉢 (二〇一二年八月 ひとしずく八九九)
最近、やっと念願の御言葉のCDを制作することに成功しました。以前、ある友人から、忙しいので、ゆっくり座って御言葉を読む時間がなかなかとれないということを聞きました。したがって、通勤や車での移動の時に聞くことができるものがあれば助けになるということでした。私は、その友人の言葉がずっと気になっていて、何ヶ月もの間、何度もその録音を試みていました。しかし、何度か制作し、それを他の人にあげると、CDプレイヤーで聞けなかったり、録音した音量が小さすぎたり、CDの表にプリントできなかったり等々、様々な困難がありました。
その問題が、最近になってやっと解決し、CD制作に成功したのでした。きっとある人にとっては、どうしてそんなにてこずるのか不思議に思えるくらいの作業であると思いますが、機械音痴でもある私にとっては、非常に高い山でした。
ところで、この御言葉のCD制作をしていて、思い出したことがありました。
もう十年くらい前になるでしょうか?聖書の素晴らしい約束、癒しと慰めの約束を、自分が読んで吹き込んだテープを、癌で患っている人に差し上げたことがありました。しかし、私の後に、その人の所に見舞いに行った友人から、そのテープの私の声に力が入りすぎていて、とても聞いていられないと本人が言っていたことを教えてもらったのでした。確かに聞き直してみると、「素晴らしい約束だよ」とばかり、かなり力んで読んでいるのがわかりました。
最近、改めてそのテープを聞いてみましたが、何年も前に天国に行かれたその人のことを思って、とても気の毒な気持ちになりました。横になって呼吸するだけでも大変だったろうに、力強い神の約束も、私の力み過ぎの声によって、慰めになるどころか、自分が叱り飛ばされているかのように感じたかもしれません。そして、その人の体調や心の状態を感じ取れないことで、本当にすまなく思いました。
病んでいる人や、また苦しみにあっている人のために、こうしたらいい、こんな神様の約束があると声高に叫びたくなることがありますが、相手の痛みを感じたり、いくらかでも理解しようとしないなら、つまり主の愛がなければ、それはかえって苦しみと傷を与えてしまうということを、私はその時、神様から教えて頂いたのでした。
そのことを忘れないように、第一コリント十三章を毎日読んでいる人がいるそうですが、私にもそれは必要です。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。(第一コリント 十三章一節)
ある面では、どうしても相手の気持ちや苦しみを深く理解できないところが、私たちにはあると思います。私たちは相手の肉体をとることはできませんし、同じ人生、同じ経験の道を通ることはできません。人それぞれ性格も感じ方も違います。そして誰もが皆、それぞれの肉体と時間に縛られているのです。
しかし、祈りを通して、神の御霊の奇跡的な力によって、ある程度相手の気持ちや痛みを深く思いやったり感じ取ることはできると思います。忘れてはならない大切なことは、相手の問題を早急に解決しようと答を差し出す前に、私たちはまず、相手の心や立場を思いやるべきだということです。 聖書に「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」(第一ペテロ三章八節)とあります。
私たちにそのように勧めているのは、私たちがそうでない場合が多いからなのだと思います。 誰にでも「どうしてこんな苦しみが?」と、突然襲ってきた苦しみにどう対応して良いのかわからない時があります。そういう時に、その相手を理解するには、ただ神様の観点から物事を見て、神様のその人に対する思いを持つこと以外にできることはないように思えます。
イエス様は、その人がどんな苦しみを通過していて、どんな憧れを持ち、どんな願望を持っているかも知っています。これからその人に何が起るか、選択次第ではどんな素晴らしいことが起こり得るかも知っておられます。主はその人の心の部屋の扉が自分に対して開かれるのを待っておられ、その奇跡の愛によって、その人の暗い部屋に明かりを灯そうとしておられます。もしかしたら、その人が神の愛で溶かされ慰められた時には、私をもその心の扉をくぐらせてもらえるかもしれません。主イエスの友ということで・・・。
良かれと思って語る私たちの言葉が、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢にならぬよう、常に主の愛によって支配して頂けますように。そして主が、私たちを「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ十二章十五節)ことのできる者として下さいますように。