やかましい鐘、騒がしい鐃鉢

j
2023年8月6日

八月六日 やかましい鐘、騒がしい鐃鉢 (二〇一二年八月 ひとしずく八九九)

 最近、やっと念願の御言葉のCDを制作することに成功しました。以前、ある友人から、忙しいので、ゆっくり座って御言葉を読む時間がなかなかとれないということを聞きました。したがって、通勤や車での移動の時に聞くことができるものがあれば助けになるということでした。私は、その友人の言葉がずっと気になっていて、何ヶ月もの間、何度もその録音を試みていました。しかし、何度か制作し、それを他の人にあげると、CDプレイヤーで聞けなかったり、録音した音量が小さすぎたり、CDの表にプリントできなかったり等々、様々な困難がありました。

その問題が、最近になってやっと解決し、CD制作に成功したのでした。きっとある人にとっては、どうしてそんなにてこずるのか不思議に思えるくらいの作業であると思いますが、機械音痴でもある私にとっては、非常に高い山でした。

ところで、この御言葉のCD制作をしていて、思い出したことがありました。

もう十年くらい前になるでしょうか?聖書の素晴らしい約束、癒しと慰めの約束を、自分が読んで吹き込んだテープを、癌で患っている人に差し上げたことがありました。しかし、私の後に、その人の所に見舞いに行った友人から、そのテープの私の声に力が入りすぎていて、とても聞いていられないと本人が言っていたことを教えてもらったのでした。確かに聞き直してみると、「素晴らしい約束だよ」とばかり、かなり力んで読んでいるのがわかりました。

最近、改めてそのテープを聞いてみましたが、何年も前に天国に行かれたその人のことを思って、とても気の毒な気持ちになりました。横になって呼吸するだけでも大変だったろうに、力強い神の約束も、私の力み過ぎの声によって、慰めになるどころか、自分が叱り飛ばされているかのように感じたかもしれません。そして、その人の体調や心の状態を感じ取れないことで、本当にすまなく思いました。

病んでいる人や、また苦しみにあっている人のために、こうしたらいい、こんな神様の約束があると声高に叫びたくなることがありますが、相手の痛みを感じたり、いくらかでも理解しようとしないなら、つまり主の愛がなければ、それはかえって苦しみと傷を与えてしまうということを、私はその時、神様から教えて頂いたのでした。

そのことを忘れないように、第一コリント十三章を毎日読んでいる人がいるそうですが、私にもそれは必要です。

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。(第一コリント 十三章一節)

ある面では、どうしても相手の気持ちや苦しみを深く理解できないところが、私たちにはあると思います。私たちは相手の肉体をとることはできませんし、同じ人生、同じ経験の道を通ることはできません。人それぞれ性格も感じ方も違います。そして誰もが皆、それぞれの肉体と時間に縛られているのです。

しかし、祈りを通して、神の御霊の奇跡的な力によって、ある程度相手の気持ちや痛みを深く思いやったり感じ取ることはできると思います。忘れてはならない大切なことは、相手の問題を早急に解決しようと答を差し出す前に、私たちはまず、相手の心や立場を思いやるべきだということです。 聖書に「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」(第一ペテロ三章八節)とあります。

私たちにそのように勧めているのは、私たちがそうでない場合が多いからなのだと思います。 誰にでも「どうしてこんな苦しみが?」と、突然襲ってきた苦しみにどう対応して良いのかわからない時があります。そういう時に、その相手を理解するには、ただ神様の観点から物事を見て、神様のその人に対する思いを持つこと以外にできることはないように思えます。
 イエス様は、その人がどんな苦しみを通過していて、どんな憧れを持ち、どんな願望を持っているかも知っています。これからその人に何が起るか、選択次第ではどんな素晴らしいことが起こり得るかも知っておられます。主はその人の心の部屋の扉が自分に対して開かれるのを待っておられ、その奇跡の愛によって、その人の暗い部屋に明かりを灯そうとしておられます。もしかしたら、その人が神の愛で溶かされ慰められた時には、私をもその心の扉をくぐらせてもらえるかもしれません。主イエスの友ということで・・・。

良かれと思って語る私たちの言葉が、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢にならぬよう、常に主の愛によって支配して頂けますように。そして主が、私たちを「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ十二章十五節)ことのできる者として下さいますように。

他の投稿もチェック

完成めざして

完成めざして それぞれ人は、完成を目指して励んでいるところがあると思います。それが医療関係の人であれ、飲食店のサービス業であれ、またスポーツの選手であれ。苦しい経験、訓練を通して人は、そこに至ります。 無駄のない動き、軽やかさ、一貫性… その人の練達ぶりから、「完成」を感じます。 これは信仰の道に導き入れられた私たちにも言えることですが、キリストを信じる信仰者の完成は、この世の人達のものと異なるところがあります。 私たちの完成は、イエス・キリストのようになることであり、信仰者それぞれを完成に至らせるのは神です。...

神に会う備え

神に会う備え 時々、立ち止まること、現場から離れることは、普段見ていない、あるいは見えてないものを見る助けになります。しかし、せっかく現場から離れても、まだ心配事が思いを駆け巡っているなら、神様が示されたいことに目が開かれないということがよくあります。私たちはそれほども日常の環境が影響を与え、神よりは自分の周りのものに影響されて生きているということです。  なかなか立ち止まることができないと、神が立ち止まらせてくれますが、痛みを伴ってということがあります。...

愛する者のためのとりなし

愛する者のためのとりなし 私が家出していた時のことは、他のところで分け合っていますが、その裏話というか、後になって近所のおばさんから聞いたお話です。 「私の旦那が仕事で函館に立ち寄った時、あんたらしい人を見たと言っていました。それであんたのお母さんに話したら、あんたのお母さんは、『そのままにしておいてあげたい』ということだった」...