愛の御霊に委ねて

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2023年8月5日

八月五日 愛の御霊に委ねて (二〇一二年八月 ひとしずく八九七)

主よ、あなたはきっと、これらの人たちを愛おしく思っておられることでしょう。友人のカフェで行われたライブに誘われて、席に座って、それぞれが歌ったり踊ったりするのを見て思っていた。何で、こんなに一人一人が美しく見えるんだろう?皆がハッピーで、自由に歌っている。お互いに愛を伝えたい、友達になろうよ、という気持ちが伝わってくる。みんな素敵だなー。

神様がご自分に似せて作られたんだから。それにしても歌い方、しぐさ、話し方から一人一人全く違った性格だっていうのがわかる。神様の姿に似せて創られたっていうのは、きっとその性格性質の素敵なところ、愛すべきところなんだろうな。神様は、それぞれに与えられたユニークなところを喜んでおられる。

きっとこの一人一人が野の花のように、美しく輝く花、麗しい香りを放つ花のような存在なのだろう。その花たちが仲良く、人生を楽しむ姿は一層素晴らしいものとして神様の目に映っているんだろうな。

別れ際「私は仏教徒だけど、キリストさん大好きなんだ」と挨拶しに来てくれた人がいた。私がクリスチャンだとわかっていてそう話したと思うが、お互い通じ合うものがあるように感じているのだろう。

 主イエスは、きっとお酒も飲んだと思うし、一緒に歌をうたったと思う。

「人の子(イエス)がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う(ルカ七章三四節)」とイエス様のことを悪口を言っていた者たちがいたが、きっとイエス様は、酒に酔っぱらうことはなくても、一緒にお酒を飲むことはあったと思う。 私は音痴で皆の前で歌が歌えないし、それにお酒を勧められてもあまり飲めない。

だからそうした場では、申し訳ないなと思うけれど、少なくても、彼らの楽しんでいるのを見たり、話を聞いて幸せを頂くことはできる。 そして話を聞いていると、主がいかにその人たちの人生に働きかけられ、守られ、取りなしをされてこられたかが感じられる。 イエス様は、「わたしが愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」と言われた。

天の父も主イエスも、この目の前にいる一人一人を愛してこられ、守られ、育て、成長させてこられた。

イエス様がそのように愛されたように、この人たちを愛するということはどういうことなのか、と思う。 私には、そんなことはできない。ただ「主よ、あなたの御霊がわたしを通して、これらの人々に触れてください」と祈るしかない。

「あなたが愛されるのを私が邪魔しませんように。あなたの愛の霊に委ねることができますように」と。

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