八月四日 結果を見ても見なくても (二〇一二年八月 ひとしずく八九六)
子供や親、夫や妻、そして友人やその他の誰かにも、一生懸命愛を注ぎ、尽くしているというのに、報われない気持ちになることはありませんか?まるで、自分の努力や忍耐など、これっぽっちも感謝されずに、何の価値もないように感じ、愛に生きることなんて、全く無駄にさえ思えてしまうような時 が。
しかし、私たちが注いだ愛は、決して無駄になることはありません。愛は敗れず、失敗もしま せん。たとえ、今は報われるように見えなくても、いつかわかる日が来るでしょう。もしかしたら、もうすでに、その相手の心の中に密かに花 を咲かせているかもしれません。
毎日、一生懸命愛に生きる、あなたのために、次の二つのお話を贈ります。このお話が、愛に生き続けるための励ましになることを祈りつつ。
「花を咲かせること」
それはそれは花好きの若い女性がおりました。彼女はとても珍しいつるを石垣のところに植え ました。それは勢いよく成長しましたが、花を咲かせることはありませんでした。来る日も来る日も、彼女は水をやったり、肥料をあげたり、 花を咲かせようとして、あらゆる手立てを尽くしました。
ある朝のことです。がっかりして、そのつるの前に立っている と、肢体の不自由な隣人が彼女を呼んで言ったのでした。その人の裏庭は彼女の庭と隣り合わせになっていました。「あなたが植えてくださったつるの花を私が どれだけ楽しませていただいているか、あなたには想像もおつきにならないでしょうね。若い女性が、石垣の反対側を見ると、そこには花がところ狭しと咲いて いるではありませんか。つるは、隙間から向こう側へ伸び、そこで華やかに繁茂していたのでした。
ここに、すべてのクリスチャンへの教訓があります。私たちはあま りにしばしば、その結果を見ることがないゆえに、自分たちの努力が水の泡になってしまったと考えるのです。私たちは、神への奉仕におい て、自分たちの祈りや労苦や犠牲が無駄になることは決してないと学ぶ必要があります。どこかで、それは実を結び、誰かの心がその祝福や喜びを受取っているのです。
愛は大きな違いをもたらす
私は、ある人気(ひとけ)のない海辺を夕暮れ時に歩いていました。ゆっくりと歩いて行くと、遠くに地元の人がいるのに気づきました。だんだん近づいて、見てみると、彼は下にかがんで何かを拾っては、 それを水の中に投げているのでした。何度も何度も、拾っては、思いっきり、海に投げるのでした。
さらに近づくと、彼が、浜に打ち寄せられたヒトデを一つずつ拾っては、海に投げて戻してやっているのがわかりました。
私は不思議に思って、その人に近寄ると、「こんばんは。いったい何をなさっているんですか。」と尋ねたのです。
彼は答えました。「ヒトデを海に投げ返してやってるんですよ。ほらね、今は引潮で、こんなに浜に打ち上げられてしまって。海に戻してやらないと、死んでしまうんでね。」
私の返事はこうでした。「わかりますけど…この浜には、何千ものヒトデが打ち上げられているではありませんか!海に全部戻すなんてとうてい無理でしょう。とてもじゃないが、一人の人の手に負えるもんじゃない。しかも、この海岸沿いの何百という浜で起きていることじゃないですか。そんなことしたって、おそらくは何の違いももたらさないんじゃないですか。」
すると、その人はにっこり微笑んで、かがみこむや、また別のヒトデを拾って海に投げ返し、こう言ったのでした。「今のヒトデには、大きな違いでしたよ!」
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。(ガラテヤ六章七~十節)
神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。(へブル六章十節)
あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすこ とをさし控えてはならない。(箴言三章二七節)
あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。(マタイ二五章四〇節)