気づかぬ恵みの内に生かされて

五月十四日 気づかぬ恵みの内に生かされて (二〇一二年五月 ひとしずく八二五)    友人がお母さんのお葬式で、自分で作詞作曲したというお母さんに捧げる歌を歌いました。お母さんへの感謝に溢れた歌で、とても素晴らしいので、私はその歌を録音して、機会ある毎に人に聞かせています。それを聞いた何人もの人が、目に涙を浮かべるのを見ました。 そしてある人が言ったこの言葉が印象的でした。「こうした歌を作ってくれるのは、死んでからなんだよね」と。その言葉から、子供さんとの関係について、試練を感じていることが伺えました。...

赦されるために

五月十三日 赦されるために (二〇一二年五月 ひとしずく八二一)   「神様に赦されるためには条件がある」 こう言うと、それではイエス様の深い愛、赦しの愛はどうなるのだ? イエス様の赦しはそのようなものではないはずだ・・・と言う人もいるかもしれません。  しかし、聖書を読むと、赦されるにはやはり条件があるのです。人を赦すという条件が。   もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。(マタイ六章十五節)...

悪魔の策略に対抗して立ちうるために

五月十二日 悪魔の策略に対抗して立ちうるために (二〇一二年五月 ひとしずく八一八)  これは、何十年も前に、友人から聞いた話です。 中国の西安の秦始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)坑を訪問した若者が、悪鬼に取り憑かれてしまいました。そこは現在、世界遺産にも登録されている有名な観光名所になっています。兵馬俑というのは、兵隊や軍馬、戦車などの模型のことで、秦始皇帝陵の3つの俑坑には戦車が100台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあり、みな東を向いているそうです。...

教会

五月八日 教会 (二〇一二年五月 ひとしずく八一四)  以下はインターネットに載っていた「教会」について語っている内村鑑三氏の言葉です。「キリスト教の「教会」という言葉は、かの洗礼という言葉と共に、今日非常に世人の誤解を被(こうむ)っている。ある人はこれを普通一般の伽藍(がらん)で あるように説き、ある人はこれを神の礼拝堂と考えている。言い換えれば、彼等は「教会」そのものを直ちに壮麗な建物と結び付けるばかりで...

光を灯して

五月七日 光を灯して (二〇一二年五月 ひとしずく八一一)  一昨日、那須から秋田に帰ってきました。お昼過ぎに那須を出たので、秋田の山道にさしかかった時には、もう真っ暗になっていました。他に通る車もなく、その道には全く街灯がありません。山のカーブ道が続き、ある所は片側が谷になっている所もあり、しかもガードレールもない部分もあるので、一歩間違えたら、それこそ命取りです。 この暗闇の危険な道で、唯一頼りになるのは車のヘッドライトです。その光が、道の中央線や路側帯のラインやガードレールを照らし出してくれ、行くべき道を導いてくれるのです。...

私たちの望みは主にあり

五月六日 私たちの望みは主にあり (二〇一二年五月 ひとしずく八一〇)  信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ 持たないでこの世を去って行く。(第一テモテ六章六、七節) これは先日聖書を読んでいて、改めて心に響いた言葉です。 一般的に、私たちのこの地上での煩いの大半は、物(お金)を持っていること、持っていないこと、あるいはもっと多くなる...