朽ちない冠を得るために

五月十八日 朽ちない冠を得るために (二〇一二年五月 ひとしずく八二六)
 
 昨日は、たまたま通りかかった近くの小学校で、運動会をしていたので、しばらく立ち止まって見ていました。ちょうど、赤、白、黄、青のバトンを持って子供たちがトラックを走っていました。アンカーが次から次へとゴールし、最後になってしまった青のバトンを持った子供も、あきらめないで全力で走り切りました。一位だったら嬉しいだろうが、最後になってしまったら、がっかりするんだろうな・・・。そう思いながら、自分の子供時代の運動会を思い出していました。思えば、私は徒競争ではいつもビリでした。恥ずかしくて惨めで、どうしてこんなことをしなければならないのだろうと何度も思いました。
 そして、私が恥ずかしい思いをしたのは、運動会だけではなく、音楽の歌のテストの時もそうでした。ピアノを弾いている先生のそばに立って、皆の前で一人づつ歌わねばならず、私は真っ赤になって、調子はずれな歌を歌ったものです。
 中学校では、中間、期末のテストの成績が皆に発表されました。学科の成績は悪くはなかったのですが、いつしか、比べ合うのが当たり前、競争をするのが当たり前、勝つか負けるかのどちらかだ・・・というような考え方が身につくようになりました。しかし、成績で一番になったからといってそれが何だというのだろう?と思い始めると、全てがバカらしくなってしまいました。そして何のために勉強するのか?また、人生とは何か?といった心に湧き上がる疑問に、答えを探すべく、高校になってから家出までしたのでした。
 その後、大学生になった私は、ついにイエス様に出会い、その答えを見出すことができたのでした。とても感謝しています。こうして私はやっと、本当に価値のある競走に参加できることになったのですから。その競走を走り抜くためなら、人に笑われても、見下げられても、そしられても構わない気持ちです。
 賞与を与えて下さるのはただ神様だけです。気にすべき事は、自分は今、主の望まれていることをしているかどうかということだけ。そして昨日よりも今日すぐれた走りができたらと願っています。
 私を召して下さった方、イエス様は、あざけりと侮辱に甘んじて、走り通したのに、自分はそれ以上のことを求めるべきだろうか?と思います。
 もし今、目の前に置かれている自分の十字架を負って進んで行くということが重すぎるように感じているのなら、どうか私たちの罪の赦しと愛のために、走り通してくれたイエス・キリストのことを思い出して頂きたいと思います。
 
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人(先に天に召された人たち)に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル十二章一~三節)
 
 今になって、私がたくさんの恥ずかしい思いを子ども時代に経験したのは、人から笑われることの訓練、そして笑われても気にしないことの訓練を頂いていたのだと思います。それは、真に価値ある競走のために、人の思いや意見を恐れないことの訓練であったと思います。
 
 以前にも書いたと思いますが、ドワイト・L・ムーディの話を思い出します。
 
ムーディが会衆に説教をし終えた時、ある教授が彼に向ってこう言いました。「あなたは今の説教の中で、幾つ間違った言葉の使い方をしたかわかっていますか?ここには私を含め教養のある者たちが大勢いるというのに、あなたが私たちを教えるというのですか?」と。ムーディは小学校五、六年程度の教育しか受けておらず、しかも成績は非常にお粗末なものだったと言われています。しかし、ムーディーは確信をもってこう答えたのです。「そうです。私には確かに十分な教養はないでしょう。しかし、私は自分の知識の全てをもって、キリストと他の人に仕えています。あなたは自分のそのたくさんの知識をもって、どんなことをしていますか?キリスト と他の人の救いのために、何をしていますか?」と。
 
 私たちは、自分をこの世の評価をもって見たら、取るに足りないちっぽけな存在に思ってしまいます。しかし、神様はそう思っておられないのです。主は、こんな私たちの救いのために、血を流して命をかけて愛して下さったのですから。
 
自分はこの世で 精一杯生きる価値がないと言うのは嘘です。キリストの血が無駄に流されたと私は信じませんし、私たちがこの地上に生きているのは、その一人一人に対して神様が深い愛と思いやり、世話を注がれているからです。
 雀の一羽でさえ、地に落ちる時まで、そこに天の父は共にいてくださっています。まして主は、私たち一人一人のことを気にかけておられないことがあるでしょうか?
 この愛の神、主のために私たちは生きるのです。そして「わたしは道である」と言われた主の生き方に従ってついていくのが私たちの人生であると信じます。イエス様は、その模範を命をかけて示してくだったのです。
価値ある競技に、最後まで全力を尽くして走りぬこうではありませんか?
朽ちない冠を得るために・・・。
 
すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。(第一コリント九章二五、二六節) 
 
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。 (ピリピ三章十二~十五節)

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