むしろ癒されるように

五月十五日 むしろ癒されるように (二〇一二年五月 ひとしずく八二三) 
 一昨日、友人のSさんから、嬉しい癒しの体験を聞きました。彼女は以前からずっと膝を患っていて、病院で二〇年間も痛み止めの注射を打ってもらっていました。しかし、最近は痛みもとれ、医師からは注射はもうしなくて大丈夫だと言われたのだそうです。
 Sさんは、つい最近旦那さんと山に山菜採りに行ってきたといって、山菜料理を御馳走してくれました。今では痛みもなくなり、もっと色々なことができるようになり、感謝で一杯のSさんが作ってくれた料理はとても美味しかったです。
 Sさんの膝のためには、彼女の友人が毎日祈っており、この癒しの奇跡はその祈りの答えでした。

また癒しは、時間がかかる場合が多いですが、いつもそうとは限りません。
  先日のバイブルクラスで、できものにより赤く腫れてしまった手を見せて祈りを求めた兄弟がいました。体のあちこちにもそのようなできものがあるということでした。彼は何年か前にも、似たような症状になったことがあり、その時には治るのに何ヶ月もかかり、寝込んだり、体重が激減したり大変な思いをしたのだそうです。彼は今回もまた、同じことが起るのではないかと恐れていました。そして、そこにいた姉妹がその彼の病んだ手を、自分の手の平に乗せて祈り、他の皆も思いを一つにして必死に祈りました。

それから五日ほど経った昨日、彼と会ったのですが、何とあんなに赤く腫れていた手は、すっかり治っていたのでした。祈りの答えに彼と喜び合いました。

 最近のひとしずくで、祈っても主がすぐに癒されない場合があって、そこには深いご計画があるということを書きました。確かにそのような場合があります。しかし、それを読んだ妻は、私たちはもっと「主は癒される」ということを強調すべきであって、病をただ受動的に受け入れてしまうよりも、もっと信仰を奮い立たせて癒しを求める必要があるのではないかということを話してくれました。全くその通りだと思います。
 確かに、現代は大勢の人が病んでいて、奇跡的な癒しを必要としています。長い間、病気を抱えている人は、どれほど落胆した思いでいることでしょう?彼らは、主の癒しの証しを聞いて励まされる機会がもっとあるべきですし、彼ら自身もその癒しを体験して信仰が励まされたら素晴らしいと思います。長年患っていた病がついに癒された時、どれだけ主への感謝の思いが高まることでしょう。苦しむことが御心なのだと思うなら、癒しを求める気持ちも湧いてきません。

主は確かにある人には、長い病や、試練を通過するのを善き理由があって許されることがあると思います。しかし早まって、あるいは奇跡を期待するのをあきらめて、病気で苦しむのが自分にはふさわしいことだと思い込んでしまうことは、主が望んでおられることではないと思います。主は愛の神であられるので、何の良い理由もなしに私たちが苦しむのを望まれません。何か病気であるなら、主には良い理由があるのです。そのことで、主は励ましに満ちた言葉を語って下さることでしょうし、教訓もあると思います。ただ落胆させることが目的では決してありません。何かの罰で自分が一生、その病を抱えて行かなければならないのだと解釈している人がいるなら、それは大きな間違いです。主は全ての罪を背負ってくださったのですから、私たちは罪の罰を自分で負わなくて良いからです。しかし、もし罪の重荷を感じているなら、それは早く主に告白して、その重荷から解放してもらったら良いのです。(第一ヨハネ一章九節)

主は、執拗に祈り求めて状況を変えてくれるように嘆願すべきだということも教えておられます。私たちは、もっと必死になり、あきらめないでしきりに求める信仰が必要である場合があります。イエス様は聖書の中で、あるたとえ話を用いて、そのことについて教えてくださっています。

 あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、「友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言った場合、彼は内から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言うであろう。
 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(ルカ十一章五~九節)
 
 主は、私たちが病で苦しむよりは「むしろ癒される」ことを望まれます(ヘブル十二章十三節)。イエス様は聖書の時代だけに、癒しの奇跡を行ったわけではなく、今も生きておられ、私たちの病んだ体に触れてくださいます。つまり奇跡は今も起るのです。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル十三章八節)


 あの、目の見えない人がイエスに癒して頂いたように、また病気の友人を癒して頂いた人のように、また悪霊に悩まされている子どもを癒して頂いた親のように、私たちも病んでいる人たちのため、また長い試練を通過している人たちの救出のために、あきらめないで、主イエス様にしきりに祈り求めましょう。(マタイ九章二七~二九節、ルカ五章十七~二六節、マタイ十五章二二~二八節)
 

<二〇二三年四月付記: もしあなたが、本当に悪魔の嫌なことをしている場合、病気か事故か、いわれのない呪いを浴びることになっても、動揺すべきではありません。かえってさらに熱心に祈り、さらに主の御心を行うことに励み続けるべきです。悪魔はあなたが主のために悪魔の国を震撼させているので、何とかしてあなたを邪魔したいのです。主が悪魔の攻撃を許されるのは、天と地にいる者達に対する証としてあなたを用いているからです。どんなことがあっても揺らぐことなく主にすがって進み続ける姿を天使も人も証を受けるためです。「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」 (第二テモテ3章12節) とありますが、迫害の背後に悪魔の策略があると見ていいでしょう。しかし悪魔の力は、神の許しの範囲と期間を越えて行使はできません(ヨブ記一章二章三章)。また主は、「あなたの正しいことを真昼のように明らかにされ」ます。(詩篇三七篇一~十一節参照)>

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