真に不動なるもの

j
2022年11月10日

 昨夜、静岡の友人の家に泊めてもらい、朝、海岸を散歩しました。

 ちょうど水平線から太陽が昇るところで、その光が海面に反射してとてもきれいでした。また別の方角に目をやれば、オレンジ色の朝陽を受けた富士山がそびえています。堂々としたその姿は、やはり威厳があると思いました。 しかし、この美しく穏やかにそびえ立つ富士山も、専門家らは、噴火の可能性を語っています。 目の前に広がる美しい海にしても、いつ様相を変え、津波として襲ってくるかわかりません。

  自然は、神様の栄光を讃えていて、その雄大さ美しさ堅固さは神様の性質をうかがわせ、あたかも不動のものに見えます。私たちが海や山を見て心落ち着くのは、そのせいなのかもしれません。人は無意識の内に、不動のものを心の拠り所とするからです。けれども、自然は神ではなく、神の手の業に過ぎません。

 不動なものは神のみです。自然という私たちをとりまく被造物も、神様の定められた時まで、立って存在するものです。

しかし、たとえこの天地が滅びようとも、主と主の御言葉は永遠に変わることはありません。 神だけが、この世で唯一の真に不動なものなのです。

 朝陽に照らされた駿河湾と富士山という神秘的な風景を通して、 目を再び、不動で確かなものに向けることを霊感されました。

 どうか、あらゆるものが移りゆく、この時代にあって、私たちが、いつまでも変わることのない、主とつながっていることができますように! 主の導きに従うことができますように!

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。(詩篇四十六篇一~三節)

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。(マタイ二十四章三十五節)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル十三章八節)

他の投稿もチェック

いばらの地に蒔かれた種

また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。(マタイ13章22節) また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。(マルコ 4章18-19節) いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。(ルカ 8章14節)...

Ⅱ. 神の位格:三位一体<9>

Ⅱ. 神の位格:三位一体<9> 神についての研究 https://ichthys.com/1Theo.htm#II.%20The%20Persons%20of%20God:%20The%20Trinity ロバート・D・ルギンビル博士著 3.神の御計画における三位一体の役割<続き> c) 具体的な新約聖書から見る三位一体の役割             1) マタイ3章16-17節: ...

石地に蒔かれた種

同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。(マルコによる福音書 4章16-17節) 主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。 彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。...