九月二九日 神の小さな声に従う (二〇一一年十月 ひとしずく六〇一)
福島でお米を作っている農家の人がテレビに出ていました。ちょうど、放射能の暫定規制値以下で、出荷できるという知らせが届いたばかりの農家の人たちの反応でした。
ある農家の人は、満面笑顔で感激していました。どんどんお米を作れると。 しかし、ある農家の人は、規制値以下だとわかっても「言葉にできない複雑な気持ちです」と言って、これから続けるかどうかわからないというようなことを話していました。
人が良しと言ってくれても、自分が十分に納得できない時の気持ち、それはとても大切で、真剣な決断の時だと思います。心に何か引っ掛かること、気になることがあるというのは、自分の信条にそぐわないとか、人生の深い価値観に関係があるように思えますが、それはクリスチャンに限らず、 よく神様のささやきかけである場合があります。
ある農家の人は、きっと最良のお米を目指して、一生をかけてきたのだと思います。暫定基制値以下で出荷可能になったと言っても、風評被害以上に、自分たちが目指す最良のお米、消費者の健康を考えて、安心できるお米を提供するという信条にかなっているかどうかが、心の中の葛藤になるのではないかと思います。
神様の聖い愛と恩恵を受けて育った作物。そして田畑で働く人の労働があってこその作物の収穫ですが、農家の人たちは、そこに注がれている天の愛と恵みを感じとっているのだと思います。彼らは自分たちにできる分を必死に頑張り、あとは天に委ねています。そのせいか、彼らは普通、忍耐強く温厚で、与える人たちであり、自然の恵みに対していつも感謝の気持ちをもっています。そして自分たちが丹精込めて作った作物を、他の人たちに分かち合うということに喜びと誇りを抱いています。そのような人たちは、少しでも他の人や、また自分自身でさえもごまかしたくないし、いくら暫定基制値より下の数値が出たからといっても、それが完全に安全なものでなく、最善から欠けていると思うと、それを与えるのに躊躇するのだと思います。この暫定規制値とは、そもそも国が定めたものであり、その基準値は国によって違い、日本の暫定規制値に異議を唱える専門家もいます。そうした声を聞きながら、国がもう大丈夫と言ってくれたから、また皆がそうしているから、と言って、 割り切れないものがある人もいるのは当然のことなのかも知れません。心に語りかける小さな声に、個人個人がしっかり耳を傾け、心の中で咎めのない決断と選 択をして行かなければならない時なのだと思います。生産者側も、また消費者側も、そして何より暫定基準値を定めた政府の人たちも。
–参考までに–
日本が定めたお米に含まれる放射性セシウムの暫定基制値は、現在、一キロ あたり、五〇〇ベクレルとなっていますが、チェルノブイリ原発のあるウクライナの隣の国ベラルーシで定められた放射性セシウムの基制値 は、日本に比べて非常に低く定められています。
ベラルーシでは、お米が作られていないからでしょうが、お米に対する規制値はありません。しかし、彼らの主食であるパンについては一キロあたり二〇ベクレルで、日本の米の放射性セシウムの暫定基準値基制値はこの二五倍なのです。
≪年々、秋田の田舎でも、田畑を手放す農家さんが多くなっているのを見ています。田畑は手放した途端、雑草で覆われ、荒涼とした景観となってしまいます。自分の小さな畑の草取りも手が届かない有様ですので、農家さんの田畑の管理がどれだけ大変か少しわかります。終わりの時には「地を滅ぼす者」が最盛期を迎えるようです。食糧を産する人達を窮地に追いやり、生産を断念せざるを得なくする要素があまりにも多いです。こうしたことの結果は、国内、また世界中の消費者である私たちに食品価格の高騰、食糧不足となってブーメランのように返ってくることになります。ある農家さんが、考え深げに言っていたことを思い出します。「農業に携わっていない人でも、土に触れて、少しでも農作業やってみるといいよ」と。この言葉からは色んな意味を汲み取れます。…土に触れることは健康に良い、自分の食べるものがどうやってできているのか学べる、食糧を産する人達の苦労を知れる、食糧難の時には少しでも自分の空き地、あるいはプランターで野菜を作れる、撒いている農薬の毒性を学べる、遺伝子組み換えということについて考える機会が持てる、農家の人達の苦境について知れる、農政について考える、国の将来の事情について洞察を得れる…など、考えたら数限りなく出てきます。
創世記には、神がアダムをエデンの園に置かれた時、神がアダムに託された仕事は、エデンの園を耕すことでした。
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 (創世記二章十五節)
この箇所は、アダムが創世記三章で、ヘビに(おそらく元々は麗しい姿)「神のように賢くなれる」と騙されて罪を犯すまでは、エデンの園を耕し、守るということが、人に与えられた神様のオリジナルの任務だったのです。それは罪の呪いを伴わない辛過ぎない任務であったでしょう。
罪のゆえに、エデンの園から出されてしまった後は、茨やあざみが生える地で額に汗して苦労して働くことになりました。それでも、そこには、種から出てくる新しい命の成長、太陽を上らせ、雨を降らせてくれる神の世話、人が神のおきてを守りながら神の導きの下に働く結果を見ることなど、数々の尊い側面が残されてあります。人が土を耕すということから、できるだけ遠ざかろうとして、機械化、化学化、遺伝子操作などして、農業に携わる人がとても少ない現状となっています。科学や機械化を唱えてはいるものの人は自分がどこに向かっているのかわかっていないのではと懸念しています。行く先をわかっているのは、地を滅ぼそうとしている悪魔その者で、主は再臨の時、そいつを始末して下さることになっています。
表向きは、進歩とか科学的とかと装っているものの、地にもたらすものは滅び以外のなにものでもないことは、よく見るとわかります。しかし、大変な食糧難が近づいていても、プロパガンダの陰に隠れていて、人々の注意は別の事に向けられてしまいます。
すくなくとも、今が終わりの時であるという認識を持ち、信仰が保たれ、主の導きに従う従順の霊を保つことができますように。人を騙してきた悪魔の結末を主は知っておられ、それは黙示録に記されています。主は近いです。≫
「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。 (黙示録十一章十七、十八節)
それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。 (黙示録十二章十二節)
ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。 (黙示録二章二五、二六節)
わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。 (黙示録三章十一節)