九月二八日 大志を抱いて (二〇一二年 ひとしずく六〇〇)
江戸幕府の支配が終わろうとしていた時、日本は、不安と混乱の最中にありました。新しい時代には、先人たちが築き上げて来た文化と伝統だけでは、立ち行くことはできないと、誰の目にも明らかでした。西洋諸国に比べ、日本がどれだけ立ち後れているかを知って、焦りや諦めを持つ人も多かったことと思います。
そんな中で、若者たちに夢と希望を与えたのが、クラーク博士の「少年よ、キリストに於いて大志を抱け!」という励ましとチャレンジの声だったのではないでしょうか。札幌農学校でクラーク博士に出会った若者たちは、キリスト教の教えを受け、また希望と勇気を受けて、新しい時代を造り上げるというチャレンジに立ち向かうことになったのでした。
クラーク博士は、当時の日本の若者を真の神様に立ち返らせるために、神様によって用いられた一人だったのだと思います。時は、熟していました。鎖国政策の島国で長い間、他国の教えに対しては排他的で、海外からの文化や宗教も、支配者たちにとって都合の良いものだけが、取り入れられていましたが、日本に押し寄せる新しい大波の影響にもはや抵抗しきれなくなっていたのです。
日本にとっては、長年にわたって築き上げた社会が崩壊するという大きな危機の時に思えたことでしょう。しかし、古いものが完全に崩壊し、過ぎ去ったことで、今まで夢にも思わなかった新しい時代を迎えることになったのです。彼らはただ単に古いものの修復ではなく、全く新しいやり方やものの考え方、取り組み方を取り入れました。歴史的な近代日本の幕開けでした。
「人間の窮地は、神様にとっての機会」である。という言葉がありますが、まさしく日本の窮地は、新しい時代を迎える絶好のチャンスだったのです。その後も日本は、関東大震災や空襲、原爆などによって破滅に思える危機を通過してきました。また歴史を遡るなら、そういった危機は数えきれないほどでしょう。その度に、先人たちは新しくさらに美しく理想的に街を甦らせてきたのです。
私は今の日本も、歴史に残る大変な危機の時代にあるように思います。そしてそれは、今までそうであったように、神から与えられた素晴らしいチャンスの時でもあるのだと思うのです。
原発で汚染された土地と、瓦礫になった町、そして崩壊寸前の経済は、修復ではなく、全く新しいものの考え方、方法、目的で生まれ変わることができるチャンスなのではないでしょうか。
昨日、石巻市で活躍している若い医師のことがテレビで放送されていました。彼は、津波で被災した人たちを助けるボランティアの人たちから、被災者の人たちの実態の情報を得、他の医師や企業と協力体制を作って、被災者へのサービスを計るということを考えていました。彼はこの被災によって、彼にしかできないチャレンジと使命を見つけた一人なのだと思いました。
主イエス様は、日本の社会の大変動の時に、大勢の日本人を、特に若者たちの魂を彼の胸にひきよせたのではないかと思います。そして彼らに、古く凝り固まったやり方から解放されて、新しく創造的に物事に取り組んで、自ら新しい道を見つけて、造り上げていくという、チャレンジを与えられたのだと思います。
どうか、日本の将来に夢も希望も持てなかった若者たちの心に、荒野に道を設け、砂漠に川を流す主が、新たなる大志を抱かせ、崩壊した街と心の復興を助けて下さいますように。
少年よ、キリストに於いて、大志を抱け
しかし、金を求める大志であってはならない。
利己心を求める大志であってはならない。
名声という、束の間のものを求める大志であってはならない。
人間としてあるべきすべてのものを求める大志を抱きたまえ。
(ウィリアム・スミス・クラーク)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ二章十三節)
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 (ヨハネ四章三五、三六節)