九月十七日 作業終了! (二〇一四年 ひとしずく一六九五)
ついに、台風がやってくる前に、私たちの村の墓地の隣りにあった廃屋の片付けが全て終了しました。
この長かった作業は、今、息子が出かけているので、母と娘のAと 私の三人で終えました。そして、今日は早々に引き上げて、リトリートの準備に集中しようと思っていました。が、母の徹底的に片付けようとするガッツには負けてしまいます。台風が近づいているということで、雨の降る前に、この仕事を終えておこうという気持ちが伝わってきます。 しかも彼女は何でもじっくり取り組むのです。
母は、腐った畳を畑の肥料とするために、プラスチックの糸やカバーをきれいに剥がして、腐った部分を肥料袋に入れていきました。それが終わると今度は、レンガを一つ一つ取り上げて、それにくっついているコンクリートを金槌で落としていきます。
彼女を見ていると、リサイクルの達人と呼びたくなるほどで、何一つとして無駄にはしないのです。そして私に、「この辺で終わろう」と言う隙を与えず、次から次へと何かしらやることを思いつき、私に、あれを持って来てくれ、これを袋に詰めてくれと、指示をするのです。私は、ただしょうがないと思い、母がやっている間は、私もやるっきゃない、と腹をくくってやりました。きっと娘Aも、私と同じ思いであったと思います。
今日は、作業をしていた私たちに、三人の人が声をかけてくれ、「頑張った」「よくやるね」「(Aを指して)今時の子供はこうした仕事、やらないよ」「きれいになった。すっきりした」という言葉をかけてくれました。
しかし、全ての人がそのように見てくれるわけではありません。母はある人にこんなことを言われたそうです。「そんな仕事、百万円ももらうだけ値するのに、ただでやって、しかも薪にするためにそんなことをするなら、灯油を買った方が割に合うだろうに」と。
母がその言葉にがっかりしたとは思いませんが、私は、母にこう答えました。
「もともと、これは村への貢献という気持ちで始めたんだから、お金がどうのこうのの話じゃ無かったでしょう。村の人達が先祖を大切にしているというのに、お墓のすぐそばに、あんなお化け屋敷みたいな廃屋があったら、気持ちの良いものではないし、私たちがやらなければ、いつまでもずっとあのままだったんだから。それに、景観が悪いだけでなく、危なかったから、誰かがやらなければならないことだったんだよ。お金にならなかったとか、時間がかかったとか、関係のないことだと思うよ」と。 すると母も、全くその通りだと言いました。
壊れてボロボロの無残な姿で立っていた廃屋は、誰が見ても、寂しさと虚しさを感じさせるものでした。とくに過疎化が進み、廃村という言葉が頭に浮かぶこういった場所では、廃屋をそのままにしておくのは、精神的にも良いことではないと思いました。それで、廃屋の解体という、長く大変な作業に取り組んだわけですが、これを成し遂げることができた勝利を、家族みんなで喜んでいます。
この勝利は、まさに主のして下さったことでした。また、多くの方々の協力と励ましの結果でもありました。感謝です。祈って下さった皆さんにも感謝です。
P・S・ インターネットのニュースでは、台風はもう三陸沖に出たということでした。昨夜は、秋田でもかなり風が強かったですが、うちは大丈夫でした。日本縦断でしたので、皆さんの中には、大変だった方もいるかもしれませんが、きっと主が助けて下さったと思います。引き続き、主が守られ、導いて、実りある一日がありますように。
主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。
彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。
人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。(詩編三七篇一八、一九、二三、二四節)