九月十五日 主とゴールに集中して (二〇一四年 ひとしずく一六九四)
先月、娘のYは、自分で稼いだお金でテレビを購入しました。それほど大きなものではないのですが、一番安くて、そこそこのサイズのものです。
私は、テレビを購入することについて、懸念がありました。家族が集まる居間にいくといつもテレビがつけられているという状態では、家族のお互いの会話やコミュニケーションが損なわれてしまうと思うのです。一方的に話続ける見知らない人がわが家の居間に居続けて、こちらの気持ちなどおかまい無しです。―ハ。
しかし、ニュースと、たまにフィギュアスケートや体操を皆で見 るため、ということで、うちの居間に置くことにかれることになりました。そしてここ数日、娘達は体操の世界選手権を見て楽しんでいます。
そして、今日の昼に、娘とスポーツ観戦について少し話をしました。優先順序や、家族として関心を注がなければならないことについて話すきっかけになり、良かったです。食べ物もそうですが、祈りによって、物事は清められ、主の祝福を引き出すことができます。(第一テモテ四章一~四節、テトス一章十五節参照) 祈りを込めれば、テレビ番組も、家族皆での娯楽の時ともなります。しかし、見た後で、やはり祈って、世の霊から清められるようにしたらいいと思います。
ところで、私も、娘たちが見ていた体操の競技を一緒に見たりしていたのですが、一つ勉強になったことがありました。それは、ある選手たちが、競技下のストレスとプレッシャーの最中で、最高のパフォーマンスをすることができることです。彼らは、他の選手と比較し合ったりせずに、自分に設定したゴールに向って、自分のすべきパフォーマンスに集中しているのです。高得点を取ったり、メダルを得て、人から称賛されても、自分の納得のいく演技かどうか、自分のベストを出し切れ たかどうかというのが、トップの人達の態度のように思えました。
私もそうありたいと思いました。といっても、私の場合、それは主のために毎日を生きることにおいてのことですが。
聖書には「人を恐れると罠に陥る」(箴言二九章二五節)とありますが、人からどう思われるかということを意識したり、人の意見を恐れていたら、私たちは主の御心を行うための的を外してしまいます。そして、人の目ばかり気にして、ただのご機嫌取りになってしまったり、また人と比べ合ったりたりしてしまいます。人と比べ合う事は、知恵のない業である(第二コリント十章十二節、ヨハネ五章四四節)とも聖書に記されていますが、私たちは、そのように知恵がなく、主の御心の的を外して、敵の罠に陥るようなことをしていたくはありません。
私たちは、目をゴールに、つまり主が私たちに望まれていることに目を留め続け、主の言われた通りに従うことに集中すべきなのです。
私たちは霊的な戦闘に従事しています(エペソ六章十二節)。そして、私たちが、優れた戦いをするためには、どのようにすれば良いのかは、次の聖句にある通りです。
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、 神の御座の右に座するに至ったのである。(ヘブル十二一、二節)
人と比較するのではなく、また人目によって束縛されるのでもなく、ただ主イエスを仰ぎ、主の御言葉に従い、主が自分のために設定してくださったゴールに向って、走り抜くことができますように。