九月七日 障壁を打ち破る力 (二〇一四年 ひとしずく一六八三)
先日、いつも泊めて頂いている東京の部屋の片付けを、そこの住人であるCさんと一緒にしました。前々から、その部屋の片づけをしたいと思っており、まずは不必要になったカウチを処分することから始めようと考えていました。しかし、何せ大きなものですし、粗大ゴミの予約など、面倒なこともあり、大仕事になりそうで、なかなか手が付けられずにいたのです。しかし、その部屋は、私ばかりではなく、他のお客さんも使いますし、Cさんも手伝ってくれるというので、ついに部屋の片付けに着手したのでした。
カウチを移動させるに伴い、布団や、また処分する書類など、様々なものの移動のドミノが始まり、一時は、部屋中、散らかったもので一杯になり、収拾がつかないように思えました。午後にはバイブルクラスを控えていたので、午前中に片づけを終わらせなければなりませんでした。しかし、主は奇跡的にクラスの始まる前には、全てが収まるべきところに収まるようにしてくださったのです。一人では決してやり終えることはできないことでした。
私は、このCさんと行った、片づけという仕事の背後に、とても大切なことがあることに気づきました。それは団結の力です。
もしも、長い間、なかなか前進も、実りもない事柄があり、そのためのブレイクを必要としているなら、一人で頭を抱えているのではなく、団結でその問題となっていることに体当たりすべきなのかもしれません。
聖書に「(主が共におられるなら)一人では千人を追い、二人で万人を敗ることができる」(申命記三二章三〇節)という箇所がありますが、困難な状況が私たちを押しつぶそうとする時も、団結して立ち向かうなら、打ち破る事ができるのです。
また、「兄弟はなやみの時のために生まれる」(箴言一七章一七節)という聖句もありますが、障害を乗り越えるためには、あともう少しの周りからの助けが必要なだけなのかもしれません。
以前のひとしずくにも書きましたが、私たち家族は、村の中でやりかけていた廃屋の片付けが、どうしても手が回らない状態でした。しかし、学生ボランティアの助けにより、大いに助けられました。そして、村には大きな喜びがもたらされました。
共に助け合うということは、暗く冷たくなりつつあるこの世の中で、とても大切な鍵であるのではないかと思います。
主は、私たちに新しいいましめを与えてくださいました。イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うという戒めです。イエス様が愛したように、とは、命という犠牲を払って愛したように、ということです。そのように私たちも愛し合いなさい、ということです。そうするのなら、主は多くの祝福をもって私たちに報いてくださるのです。そして、この愛の団結こそ、どんな困難な障壁をも打ち破る大いなる力なのです。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ十三章三四節)
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう…もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ十四章二一、二三節)
<自分一人では、できそうにないようなことが、助け合うことによって、成し遂げられるということは、沢山体験させて頂いてきました。被災地支援のプロジェクトや、村おこしなどなど。これを編集している今も、助け合うことの力を感じています。
最近村では、近くにあるかつての絶景名所を復旧しようという動きがあり、同志たちで、毎月呼びかけ合ってその場所の草刈りや、安全柵の補強などやっています。
今回、同じ県内に起こった災害のニュースに、この村のこうした仲間が、被災した地域に支援しに行こうという声があがり、私も同行させてもらおうと思っています。体調が今イチなので、御心であれば行くことになると思っています。お互いの間にあるこうした絆は尊いと思います。
絆…東北大震災の際よく使われた言葉ですが、この言葉で、明らかにしておきたいことがあります。それはお互いに縛りあうためのロープなら束縛、拘束となり、助けるための命綱なら救いをもたらすということです。
チャリティ活動、ボランティアには、もちろんたくさんの良い要素があります。愛に動かされて、自ら進んで与える、犠牲を払う行為は、それなりの善い実を結ぶと思います。しかし、自分たちはこれをやっているという誇りが伴うなら、それは真に他の人のためにしているのか、または自己満足や自分の善人イメージを磨くためなのか、吟味する必要があると思います。
「~~しよう」という呼びかけは、外見は大体善いものの、本当にそれが神の御心を行い、他に仕えることなのか、あるいは同調圧力に載せられて、みんながするから、それに反対していたら、「愛も人情もないヤツ」と思われるから、仕方なくやろうとしているのか、吟味が必要です。(神の裁きを招くことになった「~しよう」の名高い悪例の一つは、創世記の十一章三節、四節にある、ニムロデ主導の塔(ジグラット)建設でした。(普通、塔の一番上では人身供養がなされていました)。
全地は同じ発音、同じ言葉であった。 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。(創世記十一章三、四節)
今よく耳にするようになった「グローバリズム(みんなで一緒に~しよう)」の行き着くところが、悪でも何でも多様性だから受け入れて!主義となることがありませんように。
主が行くように示されたから、主の愛が動かすから、そうする、主を愛し、考えることのできる、清い器となれますように。
自分の罪深い心から穢れを取り除き、あなたに用いて頂ける器となれますように。「一人では千の敵を、二人では万の敵を敗走させることができる」のは、何よりも主よ、あなたが共におられ、あなたの御心がなされるためです。団結には力がありますが、そのお互いの愛が、御名の栄光となりますように!
互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。(ヨハネ一三章三五節)
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。(ヨハネ十七章二三節)