九月六日 時のしるしを見分ける (二〇一四年十月 ひとしずく一六八二)
今日の午後は、那須の友人のKさんの所でバイブルクラスをしました。昨日秋田からやってきていた息子のYも参加していました。初めての方も参加して、熱心に聖書のメッセージに耳を傾けてくださっていました。感謝です。
その後、私達がKさん宅を立ち去ろうとしていたら、夕食を是非ごちそうしたいとKさんが言ってくださり、お言葉に甘える事にしました。夕食までは、まだ時間があったので、息子と二人で、美しい景色を眺めながら散歩することにしました。
天気が良く、息子も私も、度々立ち止まっては空を眺めていました。那須の空には、いつも感動させられます。大好きな高原の空で、雲の様子がまた雄大なのです。
ところで、その散歩から帰ってからもまだ夕食までには時間があったので、私たちは車の中で少し休むことにしました。するとしばらくして、秋田にいる家内から電話がかかってきました。特に用事があるというのではなく、お互い今何をしているかという、いつもの電話で、今日は秋田は久しぶりに雨が降ったということでした。それをそばで聞いていた息子は、「えっ、薪は濡れちゃったのかな?」と声に出しました。ここしばらくの間、薪を乾燥させていて、晴れた時にはシートを外し、雨の日にはシートをかぶせることを繰り返してきて、何とか冬までに薪を少しでも乾燥させようと頑張っていたのです。その息子の心配の声を聞いた妻は、「大丈夫よ。今朝、天気予報で雨になるって言っていたし、空模様見ていたら、黒い雲が出て来ていたから、午前中にみんなでシートをかぶせたから」と答えました。そして妻は、「イエス様が言われたように、空模様を見れば、どうなるかわかるからね」と言いました。それは次の聖句です。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。(マタイ十六章二、三節)
その後、最近の御嶽山の噴火の話になり、妻は、「今回気象庁でも、火山の噴火を予知できなかったんだよね。少しは、火山性の振動があったのだけれど、それがまた停止したので、入山規制までにはならなかったって」と言いました。そして、やはり今の時代、「大丈夫、何も起らないさ」と楽観的に捉えるのではなく、慎重に有事に備えておくに越した事はないね、と話をしていました。
特に私たちは、聖書の預言から、今が「終わりの時」にあり、これからどのようなことが起るのか、知らされているのですから。
またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。(マ タイ二四章三~二八節)
また黙示録のはじめには次のように書かれています。
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきこと<立て続けに起こること>をその僕たちに示すためにキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。…この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いてその中に書かれていることを守る者たちとはさいわいである。時が近づいているからである。(黙示録一章一、三節)
イエス様が、私たちに再臨前に知らせておきたいと思って語ってくださった言葉が数多くあります。そして、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いてその中に書かれていることを守る者たちとはさいわいである」とあります。私たちはこのイエス様の言葉を大切に受け止め、すでに知っていることではありますが、改めて勉強しなおし、今の自分の生き方について考えてみる必要があるのではないかと思いました。
<立て続けに起こること> この訳の説明について、「ひとしずく四五九五来たる艱難期:黙示録の歴史 第一部 パート三〇」でくわしく取り上げられています。Eメール配信をご希望の方は、shizuku365@proton.me にご連絡ください。