最後の日

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2022年11月13日

「ひとしずく」ーーひと昔編

 イギリスの作家エドワード・ブルワー・リットン(Edward Bulwer-Lytton)が1834年 に発表した歴史小説に「ポンペイ最後の日」というのがあります。西暦七九年の火山 の爆発により火山灰に埋もれて消滅したローマ帝国の町ポンペイを舞台に、様々な人間たちの姿が描かれたものです。

先日、映画ではないのですが、「ポンペイ最後の日」というドキュメンタリーの動画を見ました。イタリアのポンペイにある火山爆発によって、町は一瞬にして焼けてしまい、多くの犠牲者が出ましたが、博物館にはそれらを物語る悲惨な遺跡が残されていて、それをもとに、当時繁栄していたポンペイの町の様子や、噴火によって命を落とした人たちの姿が再現され、解説されていました。噴火による死者は死んだままの姿で灰の中に埋もれ、肉体が朽ちた後もその空洞は残り、人体があった空洞に石膏を流し込むという手法で掘り出した像の数々があり、それらの人物のそばには金貨や、装飾品もありました。

 最後まで、栄えていた平和なこの街が滅びることはないと堅く信じていた大勢の人たちがいました。危険が差し迫っていたのに、ほとんどの人はその街を出ようとはしなかったのです。

当時のローマ帝国は、奴隷がいました。ある貴族は奴隷が主人である自分たちのために当然最後まで仕え、言いなりになることを期待していました。しかし、奴隷たちにも愛する家族がおり、彼らはその家族を救いに行かなければなりませんでした。しかし、女主人は奴隷が行くのを許そうとはしませんでした。それでも結局は奴隷に置き去りにされてしまうのですが、貴族たちは最後の最後まで、自分たちの手で造った奴隷制度にしがみついて生き延びようとしていたのでした。そして、そのような滅亡に直面しても、財産に執着している姿も描かれていました。

自ら造り上げ栄えた社会の中で、ポンペイの街の人々は、すぐ近くの火山が噴火して街が滅び るなど、到底、想像もつきませんでした。火山噴火の前兆があり、地が揺らいでも、誰もその街から逃げようとはしなかったのです。今まで、そんな経験もなかったので、恐らく大丈夫だろうと思っていたのでしょう。そしてその平和な社会はいつまでも続くと。

その奴隷制度を造り上げ、その踏みにじられた自由の上に成り立っていた社会には、たくさんの歪みが生じていました。ちょうど火山が爆発を押さえ切れなくなったように、その社会も破滅寸前だったのです。

 私には、これは今の社会についての警告のようにも思えました。数々の不正や社会の歪みがあるのに、まるで何も存在しないかのように物事が進んでいくように見えても、突然終焉がやってくるかもしれません。それに対して、誰も警告を与えたり、行動に出たりせずにいたために、突如として滅びに襲われるのです。

 「ポンペイ最後の日」の話に戻りますが、そうした中で感動的で 高貴な行動をした貴族も登場しました。突然の滅びに面して、奴隷達に「あなたがたは自由だ。ここにいる必要はない。逃げなさい」と言い渡すのです。しかし、その奴隷は「自分に今与えられた自由をもって、最後までご主人様に仕えます」と言って主人に仕えるのでした。そして結 局、貴族も奴隷も皆共に、灰と熱い瓦礫の下に埋もれて死んでしまいました。

良い人、悪い人に限らず皆、同じように死んでしまったのです。

しかし、自分たちを捨ててでも自由になってほしいと願う貴族と、自由意志をもって最後まで 主人に仕えようとした奴隷達の姿には、語りかけるものがありました。彼らはお金よりも大切なものを、さらには命よりも大切なものを知っており、それに生きていた人たちだったのだと思います。

 滅亡しようとしているその最中で、最後まで欲にしがみつき自己中心に生きた人たちと、自分より他の人のことを考え、愛に生きた人たちの姿はとても対照的でした。

その中に出て来た利己的な貴族は最後まで自分が手にした金貨を数えていました。最後の最後に、私たちが人生で何を大事にして、何のために生きてきたかが表れるものなのかも知れません。

自分は果たしてこの世の最後に臨んだ時、どちらの行動がとれるだろうかと考えさせられました。この地上の人生の卒業に際して、最後の最後まで、愛に生きられたら本望なのですが、それはやはり、常日頃から小さな愛を大切にし、それに生き続けていくことが大事なのだと思いました。

どうか、いつも神様の御心にかなう言動ができますように。それはただ神様の恵みによります。神様が愛と力を与えてくださり、聖霊を注いで下さる時、私たちは神様の道具となることができます。それを追い求め、それに生きることによって、何が起るかわからないこうした時代にあって、死という卒業の備えをしておくことができますように。

それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。

さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そした ら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

ルカ十二章十五~二一節

それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。』

マタイ十六章二四~二七節

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