祈りの教訓  

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2024年3月27日

ひとしずく747ー祈りの教訓                                        

一つ、私の癒しの体験談があります。 

   それは、もう二十数年前になりますが、私が奈良に住んでいた頃のことです。まだ当時はコンピューターなどあまり出回っておらず、私はワープロを使って仕事をしていました。そして、静かな場所で落ち着いて仕事をしたかったために、近くの友人宅の地下室を使わせてもらっていました。そこは、静かで涼しかったのですが、湿り気があって、カビ臭い部屋でした。そして、カビを吸ったのが原因だったのでしょう。私は咳込むようになり、それは日に日に悪化して行きました。一旦咳き込むと止まらなくなり、ベッドが揺れるほどの激しい喘息のような咳でした。

 ちょうどその頃、妻は5番目の子供の出産を控えていました。私は、彼女の出産前には、咳が止まってくれるようにと願っていました。しかし止まりませんでした。もう3週間くらい続いていたと思います。そしてついに妻は産気づき、病院に行かなければならなかったのですが、私はひどい咳のため付き添うことができず、一緒に働いていた友人の女性に頼んで、妻に付き添ってもらったのでした。それからほどなくして、無事出産の連絡が入りました。私はその知らせを聞いて喜んだものの、咳が一向に止まないことで、気をもんでいました。翌日には、この狭い部屋に赤ちゃんがやってくるのです。 私はついに、必死になって祈りました。「明日、赤ちゃんが来ます。その前にどうかこの咳を止めてください。お願いです」と。

 するとどうでしょう?前日まであれほど咳き込んでいたのに、翌朝目覚めた時にはすっかり咳は止まって、何事もなかったかのように、私はすっかり健康な状態になっていたのでした。そして、生まれたばかりのわが子を部屋に迎えることができたのです。

 これは偶然ではなかったと確信しています、愛であり癒しの神でもあられる主は「この赤ちゃんを守るために、必ず、私の咳を止めてくださるはずだ」という私の信仰に答えてくださったのです。生まれたばかりの子が、明日来るということで、私はいつになく必死に祈りました。それまでも私は、祈ってはいたのですが、その祈りは漠然としていて、主に、明確に必死に祈っていなかったのだと思います。

   本当に、それは主の御旨であるという確信と信仰があるなら、明確にしかも必死に祈るべきです。そして、主からそれを受取るまで、執拗に祈り求めるのです。

   これは、私が学んだ、祈りの大事な教訓でした。「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(ヤコブ4:2)「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」(ヨハネ第一の手紙5:14)「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる 。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:5-10)

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