そ こで会おう

j
2024年4月25日

ひとしずく1523–そ こで会おう

イエスが墓にはいないという女達の言う言葉を不思議に思い、そのことについて話しながら、 エマオへ向う二人の弟子がいました(一人の名前はクレ オパ)。彼らがエマオに向っていたのは、エルサレムに留まっていたら、自分たちの主のように、ユダヤ人たちに捕まえられ迫害されるであろ うと恐れて、逃げるためであったと考える人がいます。確かにこの二人の弟子たちは、イエス様に会った後、すぐにエルサレムに引き返しまし た。彼らのエマオに行く用事はイエ スに会った後、急に無くなったようです。おそらく、特別な用事などはなく、ただエルサレムから危なくないところに逃げていたとも解釈でき ます。しかし、た とえそうだったとしても、イエス様は、そんな彼らに憐れみを持たれ一緒に歩まれて、彼らに語りかけて、何が起ったのかを聖書から説明して聞かせていたので す。(ルカ24:13-32)

また、エルサレムに留まっていた十一人の弟子たちも、ユダヤ人たちを恐れ部屋に隠れていま したが、そこにイエス様は突如と現れました。

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのお る所の戸をみなしめていると、イエスが入って来て彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」(ヨ ハネ20:19)

このエマオへ逃げた二人の弟子たちも、エルサレムのある部屋に恐れて閉じこもっていた弟子 たちも、イエス様が言われたことに従ってはいませんで した。彼らは本当はどこに行っているべきだったかと言うと、ガリラヤ(テベリヤの海べ)に行っているべきだったのです。十字架につけられ る前にイエス様は弟子たちに「…わたしは、よみがえってから、あなたがたより 先にガリラヤへ行くであろう」(マルコ14:28)と言っておられましたし、また 墓に来た女達に御使は「急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリ ラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』」(マタイ28:7)と語られまし た。

しかし、恐れに駆られていた弟子たちは、ガリラヤに行くことはせず、部屋に閉じこもってい たり、エマオへ行ったりしていたのです。イエス様はそんな弟子たちに、説明して聞かせ、また御自分の蘇られたことを示され、何が起ってい るかを理解させようとしたのです。そして、ようやくイエス様と御使の 言っていたことを理解した弟子たちは、エルサレムから距離にして100キロ以上、一生懸命歩いて二日がかりのガリラヤの地へ行くことにな りました。そして、そこで再び復活されたイエス様に会うのです。

ガリラヤは弟子たちの故郷です。そして、ガリラヤ湖の湖畔は、イエス様との出会いの場所、 ペテロたちがイエス様に、「わたしについてきなさい」と言われたところであり、彼らが全てを捨ててイエス様に従う決意をした場所、信仰と 喜びの出発点であった場所です。

「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にし てあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」(マタ4:19,20)

ここで弟子たちは、初めて救い主イエス様に出会った時の喜びにもまして、復活されたイエス 様との出会いをどんな感動をもって迎えたのでしょう? イエス様はここで、この先、どうしたら良いのかわからずにいた弟子たちに新たなる任務を与えられました。「わたしの羊を養いなさい」(ヨ ハネ21:17)と言われたのです。これはペテロに言われた言葉でしたが、ペテロ 以外の全ての弟子たちにとっての召しでもあったと思います。

この後に、イエス様は天に挙げられる前には、弟子たちに「エルサレムから離れないで」いな さいと語られますが、その時には弟子たちはその御言葉に従い、エルサレムに留まっていました。

「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十 日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして 食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』…それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに 近く、安息日に許されている距離のところにある。」(使徒1:3-5,12)

このイエス様の言葉に従った弟子たちは、イエス様が復活されてから五十日目にあたるペンテ コステ(五旬節)の日に、約束の聖霊を受け取ることに なるのです。それ以降、彼らは聖霊に励まされ、導かれながら、「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)との主 イエスの使命を受けて、迫害や死をも恐れない、大胆な証し人へと変貌し、福音を宣べ伝えていったのでした。

イエス様の復活の事実と、聖霊とが、彼らの信仰を奮い立たせ、彼らの目を見るべきものに向 けさせたのだと思います。

そして、彼らがこの力を得たのは、すべて主の御言葉に従うことによってでした。

主の祝福と導きは、私たちが自分たちの恐れや理屈をこえて、主の言われたことに従う時に与 えられますが、私たちはどうしても目に見えるもの、恐 れているものによってその決断が簡単に影響されてしまう弱さがあります。しかし聖霊は、私たちを説得し促して主の言われていたことに従う ように導かれま す。どうか聖霊の助けによって、自分の今までの古い考えとわだちを捨てて、主の御言葉に従うことができますように。そこで復活された生きたイエス様と会う ために。アーメン。

他の投稿もチェック

村のお祭り

ひとしずく1542-村のお祭り  秋田に引っ越して、もう三年目となり、近所の人たちとも大分、親しくなってきました。 今朝も道端に腰を下ろして包丁を研いでいるおじいさんと少し話をし、「近くだけれども、誰も知らないミズ(山菜の一種)があるところを知っているので、来月、声をかけるので、一緒に行きましょう」、と誘って頂きました。そのおじいさんは高齢になり、今は足が不自由で、一人で山には行けないそうです。...

愛の詩

ひとしずく1537-愛の詩 (アクティベート・リーフ No.243より) 友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。 ―箴言17:17 世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。 ―箴言18:24 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。 ―雅歌8:7 何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。 ―1ペテロ4:8 わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。  ―1ヨハネ3:18...

主の愛の訓練

ひとしずく1538-主の愛の訓練  春になり、駅周辺の雪かきを毎日し続けた息子の仕事も終わりました。息子のために祈っていてくださった皆さんに感謝いたします。...