九月二七日 命のパン (ひとしずく五九九)
イエス様は「わたしは命のパンである」と言われました。つまり、自分が食べられて、他を生かす存在であると。彼の命は私たちが生きるようになるために捧げられたのです。罪の赦し、天国へ行くことのできる生命、そして愛、喜び、平安などの天の宝を、私たちに豊かに与えるために、神様であられる方が人間の姿をとってこられ、御自分の地上での命を放棄して下さいました。私たちはそのような神様の導きの下に生きることができるのです。私たちが感謝と平安と希望を持って、幸せに生きていくことができるのは、神様が愛情を持って見守っていて下さるからなのだと思います。
そして神様は私たちにも、そのように生きることを求めておられるのです。主のように、他の人を生かすパンとなることを。
私は、そうした生き方をしている人たちを何人か知っています。彼らからは命が溢れています。そうした彼らのそばにはいつも人が集まってきます。寒い日には自然と暖かい火のそばに人が集まるように。そういう人のそばにいると、元気づけられるし、自分の心も愛で満たされてくるのを感じます。これらの人たちは、イエス様が私たちに対してそうであったように、自然と周りの人たちを霊の内に養ってくれているように思います。彼らは、イエス様と近くあり、イエス様の愛で満たされているので、自然とイエス様のように、無私無欲の生き方、そして自分の人生を他の人たちのために差し出して生きているのです。彼らはイエス様のようであり、愛に飢えた人々にとっての命のパンなのです。
「命のパン」
田舎には、自分の命を差し出して
他の人を生かす
命のパンのような人がいる
自分を顧みず、
黙々と働きつづけ、
認められることを求めず、
ただ自分にあてがわれた
小さな畑を耕し満足し、
その収穫を他の人に分け合う
大きな心をもって
他の人を暖かく見守っている
必要のあるものに
無言で助けの手をさしのべる
彼らの手は
労働で土まみれだが
暖かさと誠実さが
その手からにじみ出ている
都会にも
生きたパンのような人がいる
居酒屋で毎晩
人の小言を聞き続ける
理解を求めて
子供のように打ち明ける
酔っぱらった人の言葉に
疲れも知らずに
親身に耳を傾ける
人の傷の深さと
抱えている荷の重さを
理解し 痛みを共有する
愛に飢えて
生きる力がもうない
大勢の人たちがいる
田舎にも、都会にも
学校にも、職場にも、家庭にも
どこにでも
主は
ご自身がされたように
自分を差し出して、
他の人のための
生きたパンとなる人を
求めておられる
そのために主は
お手本を示された
私たちが、それにならうように
もし私たちが
生きたパンになって
人に与えないなら
今日もどこかで
愛に飢えた人が
死んでゆく
「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」 (ヨハネ六章三三~三五節)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ一〇章 一〇節)
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ十三章十五、三四節)
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ十七章三三節)