いつも喜んでいる者となるように

九月二六日 いつも喜んでいる者となるように (ひとしずく五九八)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しな さい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(第一テサロニケ五章十六~十八節)

 いつも微笑んでいる人がいます。苦労や悲しみなど一度も経験もしたことがないわけでもないのに、喜びに満ち溢れ、いつも他の人のことばかり気にかけて、その笑顔が輝いているのです。そういう人に接すると、自分までもが平安で幸せな気分になります。

そして自分も、そのような人になりたいと思うのです。自分の微笑みで多くの人の祝福になりたいと。しかし、私たちには毎日、多くの思い煩いがあり、明日や遠い将来までをも憂い、何か一つ問題が起きただけでも、いとも簡単に絶望的な気分に陥って、いつしか微笑むことさえ忘れてしまいます。

聖書には「いつも喜び、感謝しなさい」とありますが、この聖書の言葉は、一部の稀な人を除いては、私たち人間には所詮無理なことなのでしょうか?神様は私たちに、できもしないことを命じているのでしょうか?

時に神様は、私たちの感情を無視するかのようなことを求められることがあります。確かにこの聖句通りにできたら素晴らしいのですが、努力しても、なかなか自分の感情をコントロールするのは難しいものです。しかし、ここにその助けとなる素晴らしい聖句があります。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ八章二八節)

  クリスチャンにとっては聞きなれた聖句ですが、この聖句には、「全てが益となる」というものすごい約束がされているのです。つまり、どんなに大変でどうにもならないような事が起っても、それらは益に転じるための始まりだということです。したがって、私たちにはいつも喜んでいるべき理由がここにあるのです。

  ところで、ほとんどの神様の約束には条件があるように、この約束にも条件がついています。その条件とは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」とあります。つまり「全てが益となる」という祝福を頂くには、自分が「神様を愛する」という条件を果たす者となる必要があるということで す。「神様を愛する者」となるということは、全ての事に神様の「ご計画を見る人」となることです。そして、神様の愛と知恵と善意で満ちたご計画に従って、 今の状況に置かれ、その状況に召して頂いたのだと「信じる者」であるということだと思います。

「いつも喜び、祈り、感謝に満ちた者」となるための道は、まず「万事が益になることを知る」ということであり、「万事が益になる」ためには「神様を愛し信じる者」となることなのです。

私たちの主への愛がもっともっと強められ、私たちに起こる全てに主の御手を見、いつも喜び、祈り、感謝する者となれますように。

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