主の愛の手

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2023年9月24日

九月二四日 主の愛の手 (ひとしずく五九四)

 生涯、従事してきた仕事が突然取り去られたり、あるいはその労働の実が一瞬にして害われたとしたら?また、信頼していた人に裏切られたり、生きがいになっていた愛する人を失ったとしたら?考えると、世の中は悲しみ、悔しさ、虚しさであふれています。

 しかし、悲しみの効用については、多くの人たちが、その体験を通して知っています。

私は、悲しみとは、神様が、他には道がなくて与えられた、救いのための愛の手のようなものだと思います。私もいく度もの悲しみを体験し、その愛の手によって助けられてきました。

今から紹介させて頂くのは、私が中学一年の時の話です。これは、ある人が抱えている、大きな試練とは比べようもない話かもしれませんが、ちょうど今、中学校や高校は中間テストの時期ということを友人から聞いて、思い出した話です。

  私が中学生になって、初めての期末テストの前のことだったと思います。私は病気になってしまいました。同じクラスのある男子生徒はそれを喜んで言いました。「わー、良かった!これであいつの今度のテストの成績は下がるぞ!」彼は、前回の中間テストの成績で、私より点数の低かった生徒でした。当時、私が通っていた学校では、上位の成績の順番が公表されていて、比べ合ったり、競争することが生徒の間でなされていました。それは子供たちばかり でなく、親の間でも同じだったことでしょう。私の病気を喜んだ彼も、きっとそんな親からのプレッシャーがあったのかも知れません。

 私はというと、親からのプレッシャーというのは全くなかったのですが、自分自身の競争心が煽られ、そんな友達の言葉を聞いて尚のこと、テスト前に病気になってしまったことが悔しくてたまりませんでした。そして私は負けてなるものかと、熱で意識がもうろうとしているにも拘わらず、机にしがみついてテスト勉強をしようとしていました。

 しかし母は、そんな意地を通そうとしている私を、力づくで布団の中に引っ張っていきました。母は当時、家計を支えるために土方の仕事をしていましたので、中学生の私を布団まで引っ張って行くのは簡単でした。私は頑固にも、熱で「ハー、ハー」言いながら、また机に向かおうと布団から這い出ようとしましたが、母親の力には叶わず、私は母に布団ごと抑え込まれて、ついに勉強することを断念したのでした。

 私は悔しかったし、どうしようもない気持ちを誰にぶつけて良いのかわかりませんでした。布団から這い出ようともがくことは、この私のどうしようもない気持ちの表れでした。

母は、そんな私の気持ちを、受け止めてくれていたようでした。そして、母は何も言わず、私が布団から出ないように、しばらく押さえていました。

 よりによってこんな期末テストの大事な時に、病気になるなんて・・・。あの時はそう思っていましたが、今は、あの病気は私にとって、とても必要なものだったとわかります。神様は、良い点数を取り、クラスで一番になろうという、つまらない競争心に夢中になっていた私に、ストップをかけて下さったのです。比べ合いやうぬぼれ、傲慢から私を救い出すためには、神様は私が大事だと思っていたことを台無しにし、取り上げる必要があったのでしょう。 あの時、私が泣いて恨んだ病気は、神様からの救いの愛の手だったのです。

 しかし何よりも、神様が本当に愛の神であられると思うのは、あの時の、私の気持ちを顧みて下さっていたことです。良いものを与えるのだから、痛みは我慢しなさい、というのではなく、未熟な私の心の痛みを、主は全てわかって下さっていました。そして母を通して、その慰めを与えて下さったのです。母にしっかり布団ごと抑え込まれて、私の気持ちがすぐに静まったわけではありませんでしたが、少なくとも、泣く者と共に泣いてくれる母がいてくれたというのは、とても慰めになり、愛を感じたのを覚えています。神はまさしく、試練と共に逃れる道をも備えて下さっていたのでした。

 今、自分ではどうしようもない悲しみや怒りや、悔しい思いを抱え、試練の中にいる人がいたら、このことを知って下さい。その試練は、自分を守るための、神からの救いの愛の手かもしれないということを。そして主は、自分でコントロールすることのできない思いの全てをしっかり受け止めて下さるということを。イエス様はかつてこの地上で、様々な悲しみや屈辱、試練を受けながらも、ひたすら御自分の命を、貧しい人々やしえたげられた人々、そして真理を乞い求める人々のために、捧げました。イエス様には、理解できない悲しみはありません。主は、私たちの悲しみ虚しさをすべて受け止め、それを新しい希望に変えて下さるのです。

彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 (イザヤ五三章二~四節)

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。(ピリピ二章六、七節)

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