生きるのも死ぬのも主のため

九月二一日 生きるのも死ぬのも主のため (ひとしずく五八七)

 主に召された子供たちの生きる目的は「生きるのも死ぬも主イエス・キリストのため」だと聖書は言っています。(ローマ十四章五、六節)。この言葉を聞くと、デービット・ リビングストーンや、ハドソン・テーラーのような、有名な宣教師達のこと、またパウロはじめ殉教した使徒たちのことを思い浮かべます。

しかし主の子供たちは、主の業をこの地上で果たすために、「宣教師」や「牧師」のタイトルを持たなくても、様々な形で神様の愛の光を輝かす召しに呼ばれています。人それぞれの神様が召し出された召しと置かれた場所は、どれも皆ユ ニークで、他とは異なり、鮮やかな天の光を闇世に放っています。
 ある人は、痛みに苦しむ人の前に立たされ、主の癒しと憐れみと優しさの手となるように召されているのかもしれません。
 ある人は、世の不正を前に立ちすくむ人たちのために、憎しみを赦しの愛で乗り越えるのを助ける為に召されているのかもしれません。
 ある人は、経済的破綻の中に置かれた人のために、主の奇跡の供給を指し示しつつ、希望の光で闇を照らすよう召されているのかもしれません。
 ある人は、世で言う「失敗」という重荷を自ら背負いながらも、進み続ける勇気と力と信仰を、同じような境遇にある人に示 すために召されているのかもしれません。
 ある人は、もつれた人間関係というクモの巣の中に置かれても、愛と謙遜な正直さと祈りが答えをもたらすのを待ち望む姿勢と態度を示すために召されているのかもしれません。
 ある人は、周りの人が全て捨て去った仕事の中に、主のささやく呼び出しを聴いてそれを一人続けることが召しなのかもしれ ません。
 ある人は、社会に「犯罪者」とレッテルを貼られてしまった人の、心からの声にならない憐れみと理解を求める叫びに耳を澄ますように召されているかもしれません。
 ある人は、ほとんどの人が気づいていないことについて危険を感知して、それを周りに警告し、注意するように召されているのかもしれません。
 ある人はあらゆる面で弱さの衣を着せられ、同じ弱さを抱えている人を理解し助けるように召されているのかもしれません。
 ある人は孤独な者の友となって、つらい道を一緒に歩むことによって決して離れることのない友としての主の愛を示すよう召されているのかもしれません。 

 主のために生き死ぬということは、皆、人それぞれユニークなものだと思います。それは、人と比べられるものではなく、何が一番主に喜ばれ、称賛に値するかなど、 誰にも評価できるものではありません。ただ主が自分に示された静かなささやきに、日々従って行くこと。それがどんなに人の目から見て、大したことに見えなくても、心を込めて行うこと、それこそが主に喜ばれ、主のために生き死ぬことなのだと思います。
  (祈り:)主よ、全てあなたの子らは、神聖で計り知れない、深く大いなる計画の下に生かされているという真理に、私たちの目が開かれますよ うに。十字架を背負う人それぞれの歩みに、慰めと希望と励まし、そして祈りを注ぐことができますように。皆、イエス様の愛の体の肢体の一部として働いています。主よ、あなたが命を賭けてあがなわれた尊い兄弟姉妹のそれぞれの召しをどうぞ祝福してください!そしてこの暗闇の世にあって、それぞれが誰かにとっての救いの光となることができますように。

   あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(ピリピ二章十五節)
 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、 キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十二章四、五節)

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