九月十八日 神は人を神の姿に造られた (二〇一四年 ひとしずく一六九六)
「『神は人を神の姿に造られた』ということは、人を個性をもった存在とされたということだ」という記事を読んでいました。これは、つまり神様がそうであるように、人を、考え、感じ、選択し、決断し、行動に移し、他者との関係を持ち、また関係を築く存在とされたということです。
ですから、人によって考えが異なり、選択も行動も異なっていて当たり前なのであり、そのように一人一人を、それぞれの個性をもったユニークな存在として、神様は造られたのです。決して、他の誰かと同じようになることを創造者である神は求めておられるわけではありません。神様は、誰かの個性だけを特別であると見なしておられず、それぞれが独立した個性であると見てくださっています。そして、 私という個性と交わりたいと思ってくださり、その交わりを楽しまれるのです。
人は、自分が勝手に造り上げたイメージという形に、自分や他の人をはめ込もうとします。そのイメージがどれだけ理想的なものであっても、神は一人一人を異なった個性として(神の姿に似せて)造られたということを覚えて、創造者の思いとご計画に目を留めるべきです。
人は外見を見ます。そしてこうすべきだ、ああすべきだと批判したり、裁いたりします。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(第一サムエル十六章七節後半)
神は私たちに考える自由、選択する自由、そして行動に移す自由を与えてくださっています。 私たちは、神様がそれほども愛してくださり、自由を与えられた存在だということを、深く考えてみるべきであると思います。
各自が、その自由をつかって、何を考え、何を選択し、愛である神様にどれだけ従って、そのいましめである愛をどれだけ行動に移すかを、神様は見てくださっているのです。
私たちもまた、そうした神様の愛の心と目を通して、自分という存在と、周りの人達を見ることができますように。
神は自分のかたちに人を創造された。…神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記一章二七節前半、三一節前半)