神は人を神の姿に造られた

j
2023年9月18日

九月十八日 神は人を神の姿に造られた (二〇一四年 ひとしずく一六九六)

 「『神は人を神の姿に造られた』ということは、人を個性をもった存在とされたということだ」という記事を読んでいました。これは、つまり神様がそうであるように、人を、考え、感じ、選択し、決断し、行動に移し、他者との関係を持ち、また関係を築く存在とされたということです。

 ですから、人によって考えが異なり、選択も行動も異なっていて当たり前なのであり、そのように一人一人を、それぞれの個性をもったユニークな存在として、神様は造られたのです。決して、他の誰かと同じようになることを創造者である神は求めておられるわけではありません。神様は、誰かの個性だけを特別であると見なしておられず、それぞれが独立した個性であると見てくださっています。そして、 私という個性と交わりたいと思ってくださり、その交わりを楽しまれるのです。

 人は、自分が勝手に造り上げたイメージという形に、自分や他の人をはめ込もうとします。そのイメージがどれだけ理想的なものであっても、神は一人一人を異なった個性として(神の姿に似せて)造られたということを覚えて、創造者の思いとご計画に目を留めるべきです。

 人は外見を見ます。そしてこうすべきだ、ああすべきだと批判したり、裁いたりします。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(第一サムエル十六章七節後半)

神は私たちに考える自由、選択する自由、そして行動に移す自由を与えてくださっています。 私たちは、神様がそれほども愛してくださり、自由を与えられた存在だということを、深く考えてみるべきであると思います。

 各自が、その自由をつかって、何を考え、何を選択し、愛である神様にどれだけ従って、そのいましめである愛をどれだけ行動に移すかを、神様は見てくださっているのです。

 私たちもまた、そうした神様の愛の心と目を通して、自分という存在と、周りの人達を見ることができますように。

   神は自分のかたちに人を創造された。…神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。(創世記一章二七節前半、三一節前半)

他の投稿もチェック

見よ、わたしは新しいことを行う

見よ、わたしは新しいことを行う 今回の旅の終りに、ある兄弟が、素敵な絵を下さいました。それは神様の両手の中に、芽を出したばかりの植物があり、背景には虹が描かれていました。そしてそこには、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(新改訳Ⅳイザヤ43章19節前半)の聖句がありました。  色々な地域のエクレシアを訪ねさせて頂いて、それぞれの中に主が働かれておられるのを目にして、御霊の働きの美しさ、そしてそれに譲渡して従う人の証…これこそ、エクレシアの命の輝きと感動せずにおられませんでした。...

詩篇16篇

詩篇16篇 ダビデのミクタムの歌 神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。 わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。 地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。...