九月十二日 実現に至らせてくださる神 (二〇一四年 ひとしずく一六八九)
先日、母を定期検診に病院に連れて行った帰り、母が「墓に行ってみるか?」と尋ねました。墓と言っても、母が言うのは、墓の隣りにある廃屋のある場所のことです。私は、「うん、行こう。見てみたいよ」とすかさず答えました。
私が留守をしていた間、母と息子は、この廃屋の廃材の片付けをやってくれていたのです。もうほとんど片付いたということで、母はその進歩を私にも見せたかったのです。
行ってみると、驚きました。ほとんどのゴミももう片付けられてなくなっていましたし、薪として使える廃材は、片隅にきれいに積み上げられていました。今年の春からやり始めて、ついに家族の助けで、ここまでたどりつけたのです。
今日、その最後の廃材を運ぶために軽トラックに載せていたら、近くのおばさんが、梨を持ってきてくれました。そして息子がこの一年間で、仕事が早くなり上手になったと褒めていました。
振り返れば、この廃屋の片付けに手をつけたものの、途中で、しなくてもいい仕事を手がけてしまったのではないかと思えたこともありました。また、どうやってこれをやり終えることができるのかと思えたこともありました。割れてしまったガラスの破片やシロアリがついていて薪小屋にも持って行けない廃材の片付け、重いトタン屋根の廃棄、トイレのあった場所の土被せ、私たち数人ではとても今年中に終わりそうにない仕事量…。考えたら、不可能と障害だらけという事態でしたが、神様は介入して助けてくださいました。
主は一番励ましが必要だった時、ボランティアに燃えた若者達を送ってくださいました。しかも、彼らは廃材の片付けだけではなく、この村の草刈り、そして村の運動会に参加してくれ、村人達と若者達との交流があり、また私の子供達にとっても、 良い刺激となりました。感謝です。
今日、改めて息子ときれいに片付いた、廃屋の跡地を眺めながら、勝利を喜ぶことができました。確かに仕事は大きかったですが、私たちの神にとって、大きすぎることはありませんでした。
主はたくさんの報酬を下さいました。私たちは不完全で、力不足ですが、ただ信仰によって踏み出す時、神は、決して私たちを失望させることはないと、再び、確信させてくださいました。主は、私たちの信仰をご覧になられ、憐れみの手を差し伸べてくださるのです。主は真実です。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(ピリピ二章十三節)