台風十八号

j
2023年9月11日

九月十一日 台風十八号 (二〇一四年 ひとしずく一六八八)

 昨日の午前中は、母の病院に付き添い、診察を待っている間、台風から、関東地域の人達が守られるようにお祈りしていました。呼びかけに応えてお祈りして下さった方々にも感謝です。台風は浜松あたりで上陸し、茨城の沖に抜けるという進路で、関東地域を通過し、ある地域では、浸水などの被害が報道されています。 

しかし、東京に住む友人の話によると、しばらく大雨が降り、近く の川の水が溢れ出しそうだったので、避難の荷物まとめをして、祈っていたら、急に静かになり、外を見ると、雨がやみ、明るくなっていたそうです。結局その友人の住む所では、見る見る川の水も引き、そのまま晴れて暑くなったということです。その友人は、主を賛美していました。

 また、ある人は、風で開き窓の扉が飛ばされてしまったと言っていました。しかし、こうも言っていました。「この位で済んでよかったです。きっと祈りのおかげです。ただ、もう少し注意深くなって、扉を閉めるだけではなく鍵をかけていれば良かったです。そうしていたら、扉は飛ばなかったと思います。注意深さが必要ですね。」と。

 この話を聞いて、私たちがお互いのためにお祈りしていたことで、主は大きな保護を与えてくれたものの、やはり、こうした台風などの自然の災害には、十分に気をつけるべきで、軽く見なすべきではないという教訓が与えられたと思いました。

 私たちは災害に対して、油断していたり、祈ってはみても、あまり備えていなかったり、ということがあるように思いますが、やはり、自分たちにできることはやるという、自分の分を果たすことも必要で、それも最悪のケースを考えて、備える必要があるのだと思います。

  主は、最近、土砂災害や、デング熱や毒グモ、また火山の爆発、そして今度は台風の襲来と、次々と災いを許されて、私たちが霊の内にも目を醒していることを警告しているように思えます。また同時に、私たちがこういった災害に襲われる時に、依り頼むことのできる神がおられることを思い起こさせようとされているのだと思います。

今回の台風も、ただ台風が来るのをそのまま受け止め、じっと過ぎ去るのを待っているのではなく、祈りを通して、神に介入して頂けたことを感謝します。祈るなら、私たちの思いを越えて、大変なことが起っても、 神は最善をしてくださっているということがわかります。主に感謝です。

災害のひどかった所や、亡くなった方もいらっしゃるようですが、 神が彼らを慰め、助け導いてくださいますように。

また次の台風十九号も今回と同じような進路でくる可能性があるそうですが、そのために、必死の祈りで今から備えていましょう。そして主が、私たちを含めて、この国の人たちに語られたいメッセージを受け取ることができるように祈りましょう。

主の許しなしには何一つ起らないこと、そして、主は全てのことを 愛の内になさってくださっていることを感謝します。

   詩編九一篇

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。

主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。

あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。

あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。

彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

他の投稿もチェック

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...

聖 書に書かれている農業

ひとしずく1554-聖 書に書かれている農業  先日、創世記を読んでいて、一つ発見がありました。それは、人はエデンの園に置かれた時、神様から園を耕すようにと言わ れていたことで す。私はずっと、畑を耕すことは、アダムとイブが罪を犯して、エデンの園から出されてから神様から課せられた仕事だと思っていました。しかし創世記2章に は次のように書いてあります。  「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」 (創世記2:15)...