九月十日 私たちの祈りを軽しめない神 (二〇一四年ひとしずく一六八七)
昨夜、友人のLさんから電話がありました。先回の台風の際、皆さんの祈りに主が答えてくださり、台風が進路を変えたように、今回の大型台風の進路ももっと南にそれるようにお祈りしてもらいたいということでした。
それで、皆さんにも霊の内に協力して頂いて、今回の台風の力が急激に弱くなるか、また進路がもっと南にずれて、大きな被害に遭遇しないように、お祈りして頂けたらと思いました。よろしくお願いします。
私たちは、色々な状況のために祈りを捧げる機会がありますが、その度に、主が答えてくださっているという証しを見させて頂いています。
災害や諸々の大変な事態に遭遇することの多いこうした時代にあって、祈りを通して神の憐れみと力にすがることができるのは何という特権、また祝福でしょうか?
私たちの神は、嵐を鎮め、病を癒し、卑しめられた者を守り、喜びと慰めをもたらしてくださる方、イエス様に現れた、優しさに溢れるご性格を持たれた方です。
主は、私たちが熱心に呼び求める祈りを軽しめないと言われました。天候であれ、また癒しを必要としている人であれ、また大きな困難に直面した人であれ、私たちは、神様の介入を求めて祈ることができます。
聖徒のためのとりなしの祈りという奉仕をしてくださっている皆さんに祝福がありますように!
すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。(マタイ八章二四~二七節)
彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ二〇章二九~三四節)
御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなし をして下さるからである。(ローマ八章二六、二七節)
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペ ソ六章一八節)
だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。(ヘブル十章三五~三八節)
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。(ヤコブ一章六~八節)