神の無条件の愛

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2023年9月9日

九月九日 神の無条件の愛 (二〇一四年 ひとしずく一六八六)

主は、私たちに主の愛がどんなに深いものであるかを教えるため に、おそらくほとんどの人たちに、放蕩の道を歩むのを許されるように思います。

神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなか に閉じ込めたのである。ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。(ローマ十一章三二、三三節)

  私たちの心の中には、もし主を失望させてしまったら、主は自分のことをもう愛してくれないのではないか、と思うところがあるのではないかと思います。しかし、主の愛は無条件であり、私たちが良い子だと愛が注がれ、悪い子だったら愛さないというようなものではないのです。

 イエス様が十字架につけられる前、彼が捕まって曳かれて行く時、ペテロは自分の身を守るために三度もイエス様を「知らない」と言いました。後で、彼は自分のしたことを悔やみ、激しく泣いたとあります。自分でもそんな自分がどうして赦され、受け入れてもらえるだろうかと自責の念でいっぱいだったことでしょう。しかし、主のお心は私達の思いをはるかに超えて大きいのです。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(第一ヨハネ三章二十節 新改訳四版)

  主は結局、ペテロを受け入れ赦していることを示すために、新しい任務を彼に任せました。

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。(ヨハネ二一章十五~十七節)

主は、「義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マタイ九章十三節) と言われました。しかし、私たちは、主の愛は無条件で大いなるものだと言われても、またそれを頭では分かっていても、実際にそのような信頼を主に寄せることができているかというと、そうではないようです。そして、何か罪を犯してしまったり、失敗ばかりしていると、こんな自分など主は愛してくれるはずがないと、勝手に思い込んでしまうのです。 しかし、考えてみると、自分自身がどれほど罪深い者であり、無力であるかを知って初めて、主の愛の深さを知るようになるのではないかと思います。そうして人は、次第に主の愛を心から信じるようになり、主により頼むようになって行くのではないでしょうか。また、そのような自分の弱さを知ることで、他の人の弱さを理解し、許し、愛するようになるのだと思います。私を愛して,私の罪のために死んで下さった主は、この隣り人のためにも死んで下さったのですから。

  私たちは、主の愛を失うまいとして、必死になって祈り深くなろう、御言葉を読もう、善を行おう、と思ったりしますが、主はそれよりもまず第一に、私たちに御自分の心を、また愛の深さをわかってほしいと願っているのだと思います。 

あるクリスチャンが、なかなか主の喜ばれるようなことを行う信者になれないので、その試練をある信仰の先輩に打ち明けたところ、そのアドバイスは、ただリラックスして、全部主にまかせたらいい、ということだったそうです。それは、条件つきで愛されようとする張り詰めた思いから解放され、何もしなくても、変わらず愛していてくださる神の愛に気づくことが大切なのだ、という意味で言われたのだと思います。

  私たちは、大抵、心の内のどこかに、自分を誇るところがあり、自分の善ゆえに主から祝福を受けるに値すると思っているか、あるいは、自分の至らなさ故に、主の祝福を逃してしまっていると思っているところがあると思います。

  後者は一見、謙遜な態度に見えますが、実は、この二つは、どちらも同じ間違った考えから来ています。それは、人はその正しさをもって神に受け入れてもらえる、また神と同等の存在になれると思っているところです。 そうした思いは、如何に人の心が神から遠く離れてしまっているかという厳しい現実を悟っていないことから来ているのだと思います。(ローマ十章三節参照)

私たちはただ、神の憐れみによってしか、神様に愛され、受け入れてもらう手だてはないことを気づく必要があると思います。それによって、パウロが言った次の言葉と同じ思いで、主に心から賛美できるのだと思います。

わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないこと を、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。…わたしは、 なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主 イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。(ローマ七章十八、二四、二五節) (エペソ二章八-十節も参照)

イエス・キリストは、そのような悲惨な状態にある私たちに差し伸べられた、神様の 憐れみの手であり、神の無条件の愛なのです。

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