それぞれの賜物が一つに結集

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2023年8月14日

八月十四日 それぞれの賜物が一つに結集 (二〇一二年八月 ひとしずく九一九)

 一つのプロジェクトを成し遂げるには、大勢の人の手を要する場合があります。全ての工程を、自分一人の力や能力で成し遂げることはできません。だから、多くの人から助けをもらわなければなりません。

先日、被災者の方々のための絵本プロジェクトが始まりました。まずその始めとして、有志に 集まってもらい、美術館見学をした後に、様々な意見を聞かせてもらいました。そして、自分一人では思い付かないようなアイデアをたくさん 頂きました。

「助言者が多ければ安全である」(箴言十一章十四節) という聖句がありますが、神様は色々な人の口を通して語りかけてくださいます。神様は、一人の人に全ての賜物を授けることはされず、多くの人たちに調和よく賜物を分け与えてくださっています。私たちは、その恵みと益に与るために、主がこの人、あの人に与えられた賜物の力を 借り、また自分が頂いている賜物は、主と周りの人たちに、喜んで差し出して分け合うのです。

那須に集まってくれた有志だけでなく、他にも、このプロジェクトに、これから色々な形で関 わってくださる多くの人たちがいます。これだけの主の経路になってくれる人々の、それぞれの賜物や祈りが結集するなら、本当に素晴らしい ものが作れると確信しています。

普段、私たちはそれぞれの場所で、それぞれの召しに生き、バラバラのように感じるかもしれませんが、ひとたび、このプロジェクトのように、一つの目的のために、その一つ一つの賜物と祈りの力が集まる時、素晴らしく大きな力となって、広く、多くの人たちに今まで成し得ることのできなかった特別 な祝福をもたらすことができるのだと思います。賜物はそれぞれ違うかもしれませんが、思い、御霊は一つです。

主が私たちの団結を祝福し、何よりも、この絵本の「命」につてのメッセージが、神様の御心にそって伝えられるよう導いてくださいますように。

一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キ リストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄 附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。(ローマ十二章四~十節)

霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、また ほかの人には、同じ御霊によって信仰、 またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。からだが一つであって も肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、 そして皆一つの御 霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 

もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。そうでは なく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。

それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(第一コリント十二章四~二六節)

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