荒れ地を天国に

八月十日 荒れ地を天国に(二宮尊徳に学ぶ) (二〇一二年八月 ひとしずく九〇九)

 
 一番下の娘と散歩しながら、私の母校である小学校跡を訪ねてみました。建物はもうないのですが、今でも思い浮かべることができます。あそこに花壇があって、あそこはトイレ、それからあそこが宿直室、その手前に校舎・・・。娘に語るともなく私はつぶやいていました。校庭のグラウンドは、現在この地域の老人会の方たちが、ゲートボールのために使っています。
 懐かしく思いながらも、すっかり変わってしまった様子に、少し寂しくも感じました。しかし、よく見ると一つだけ校庭の入り口に当時と全く変わっていないものがありました。それは年配の人なら誰もが知っている、あの二宮金次郎の銅像でした。ちょうど最近、二宮金次郎について子供たちと一緒に読んだばかりでした。
私は、近くに寄って銅像を触ってみました。この銅像だけは変わっていないのかと思いながら。ただ、小学生の頃見たよりも、銅像が随分小さく見えました。
 それは、ただ私が大人になって体が大きくなったというだけのことではないように思えます。若い人たちは、この二宮金次郎の銅像を知る人も少ないと聞きましたが、今ではすっかり存在感が薄れ、ただの古くさい銅像になってしまったせいかもしれません。しかし、その銅像がいくら小さく見えても、存在感が薄れても、やはりそこに立っており、村の人たちはその銅像を取り去ることなくそのままにしていたのです。この村にある銅像といったら、この二宮金次郎の銅像くらいだと思います。何か、彼の生き方の中に、無視しようとしてもできない、大切な真理があるように思えます。村の人たちも同じように感じているのかもしれません。
 
 二宮金次郎(尊徳)(1787~1856)は現在の神奈川県小田原市の貧しい農民の子として生まれ、両親に死に別れた後は、伯父に引き取られて育てられました。金次郎は勉強熱心で、一日の仕事を終えてから勉学に励もうとしますが、伯父からは、ランプの油がもったいないと言われて、ランプが使えませんでした。それで彼は、ランプの油のために、自分で菜種を栽培して油を収穫しようとします。しかし、それでも伯父からは本を読む暇があったらその分働けと文句をつけられます。それで尊徳は、柴を担いで運ぶ時間を、本を読む時間に使うようになったということです。あのおなじみの銅像の姿は、その時の姿のようです。
尊徳は村の人たちが誰も使っていない沼地を見つけて、そこに種を蒔き、米二俵を収穫したといいます。また、江戸時代後半の困窮した農村を救うために、農村復興の方法を実践して、東北地方から九州にまで影響を与えました。
 昔、日本人は農地を大切にし、一生懸命泥まみれになって田畑を耕しました。しかし、こうして秋田の田舎の様子を見ると、今では、あちらこちらで農地が捨てられたように荒れ地になっているのです。田畑で働けなくなった老人たちの後を継ぐ人がいないからです。こんな風景を見ていると、時代が本当に変わってしまったんだなーという思いに駆られてしまいます。
 小学校跡地を後にして、私たちは叔母の畑に行ってみました。少し前に、叔母が私たちの家に来て、その小学校跡地の脇にある畑を耕してみないか、と言っていました。私が小中学生だった頃、私の家は経済的にとても大変で、母は土方仕事をしながら、叔母からその土地を借りて、作物を育てていました。そこには隙間だらけの掘ったて小屋が建てられていたのを覚えています。母親は叔母に、今は、畑を借りても、もう作ることができないからと断ったのですが、私は、その畑を見てみたい気になったのです。
もうそこに小屋はなく、真ん中へんにぽつんと何か野菜がつくられているだけで、畑の半分近くに雑草に生い茂っていました。 年老いた叔母が何とか作れるのはその位なのでしょう。
 もし一生懸命やれば、この雑草だらけの荒地も、何かを産することができる喜びの場所になるのにと思うと、惜しい気持ちが湧いてきました。考えてみると今ある母の畑では、自分たち家族が食べる分も十分に賄いきれていません。それに、耕したくても耕すことのできない状態にある人たちがいるというのに、この少なくとも目の前に提供された畑を、労力があるのに、このまま放っておいて良いものかと考えさせられます。
 今、日本は就職難となっていますが、日本中にある、捨てられた農地を耕すなら、仕事が無くて行き詰まっている大勢の人がやるべきことや生きがいを見出し、少なくても食べていけるのではと時々思います。そして田舎には空き家もたくさんあります。
今日本の農地は捨てられて荒れ地になり、山も間伐しないために荒れ放題になっています。神様が与えて下さったものを、どうしても大切にしているとは思えませんし、これでは神様も祝福できないでいるのではないかという気がします。
 そこで早速、この叔母の畑を借りて耕すことを、子供たちと相談し、母親にも話してみました。すると母親は「私はもうできない。でも子供たちがやりたいなら、やらせてみたらいい」と言ってくれました。叔母に許可をもらったら、 今植えて秋に収穫できる野菜がいくつかあるそうなので、その畑を耕してみたいと思っています。
 子供たちも、自分達だけで畑を作ってみたいという願いがあったようです。今までは、おばあちゃんの手伝いだけでしたが、今度は自分達だけで挑戦してみる畑ができることで大喜びしています。明日からこの子供たちの小さなチャレンジが始まります。
普段から心に思っていたことに、主は、二宮尊徳の生き方や教えから、確信と導きを与えて下さいました。自分たちの周りの小さな世界を変えるための、新たな一歩を踏み出せそうです。
 
--以下は岩波書店「代表的日本人」(内村鑑三著)の「二宮尊徳」の中から引用したものです。(p95,96)
 
 「天地はたえず活動していて、我々をとりまく万物の成長発展には止むときがない。この永遠の成長発展の法にしたがって、休むことさえしなければ、貧困は求めても訪れない」このように、尊徳は貧困にあえぐ農民らに向って語りました。農民らが領主の悪政に不平を訴え、先祖伝来の故郷を立ち去ろうとして、尊徳の指導と助言を求めて訪れたときのことです。尊徳は告げました。「皆さんに鍬(くわ)を一丁ずつさし上げよう。私の方法どおりに従ってきちんと実行するなら、荒地を天国に変えることを約束する。他国に運を求める必要もなく、負債すべてを支払い、再び豊かな生活を楽しめるようになるのである」
 村人は、その言葉にしたがって「鍬一丁ずつ」を農民聖者の手から受けとり、勧告どおりに懸命に働きつづけました。そうして数年後には、以前なくしたすべてを取り戻したうえ、あり余るほどになりました。
 
 来るべき至福千年には、簡単な農具を使っての農耕がなされます:
 

彼(主イエス)はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。 (イザヤ二章四節)

 

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