七月二一日 低くされる時 (二〇一一年 ひとしずく六一〇)
「神は真実を見ているが、すぐには現さない」というトルストイの小話は、とても考えさせられるものだと思いました。
誠実で、善人である、ある商人が、全然、身に覚えのない罪を着せられます。殺人罪に問われます。裁判でも、彼の主張は取り上げられず、妻の皇帝 への直訴の手紙も届きません。さらに妻も彼が犯罪をしたかもしれないと疑うのです。
彼は結局、無実を認められず、シベリアへ送られ、そこで何十年も時をすごします。そうしているところへ、同じ故郷からシベリアへ送られてきた囚人がいました。そしてこの商人はこの人こそが、自分をそうした事態に陥れた張本人だとわかります。
しかし、そんな彼がその張本人を助けることになります。そしてその張本人が悔い改めて真実を語って、その商人が自由の身になれると言い渡された時には、彼はもう死んでいたのです。
物語はそこで終わりです。わたしは、そうしたこともあり得ると思いました。
地上では、誤解され、疑われ、非難され、自分の犯した間違いでもないのに、そのとがを身に負って代わりに刑罰を受ける。真相を知っている人はごくわずか、あるいは一人だけかもしれないということが。
もしそうした人が、本当にいたとしたら...
神様はどうしてそのようなことが起るのを許されるのだろうか? 神様は地上の彼の人生においてどうして彼を救い出してやらなかったのだろうか? という疑問が湧いてきます。
わたしが行き着く答えは、こうです。
おそらく彼の受ける報いは、この地上では、ふさわしくない。つまり彼のうけるべき報酬は大きすぎて、天国において、天国にあるものをもって報いるのがふさわしいと主は見られたのだろうと思う。
「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」(マタイ五章十二節)という言葉があります。
「天において」とあります。だから地上の報いではなく、天において報われるものがあるのです。しかし、もし地上ですでに慰めを受けているなら、 天国ではないのです。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(ヘブル十一章十三節)という聖句があるので、大勢の信仰の人たちは、この地上では約束の成就を見ずに、天国で見る事になるとわかります。
大勢の人たちがこの地上で報われるのをあきらめました。天国での報酬に望みをかけました。彼らの報いは大きいと思います。
イエス様は、自ら無実であったのに、私達の全ての者たちの罪をかぶって死んでくださいました。ですから、この地上では罪の呪いを受け、そして地 獄にまで行ってしまったのです。神様はそうした彼を、黄泉に捨て去っておかれることをしませんでした。父なる神様は、イエス様を立てて、万物の支 配を彼の手に委ねられました。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(ピリピ二章六~九節)
だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。(第一ペテロ五章六節)