六月三日 神の約束を信じて (二〇一四年 ひとしずく一五六二)
アブラハムとその子イサク、またその子のヤコブは、ユダヤ人の祖先ですが、彼らに神様は子孫が増え広がると約束されました。
アブラハムに対して:
「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多 くの国民の父となるであろう…わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起こそう。また王たちもあなたから出るであろう。」(創世記十七章四、六節)
イサクに対して:
「わたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、 あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって 祝福をえるであろう。アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。(創世記二六章四、五節)
ヤコブに対して:
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、 西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あ なたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。(創世記二八章一三~一五節)
しかし、時々その約束を神様はお忘れになったのか、あるいは約束 を破られたのか、または、自分たちの望みや願望には全く関心を示してくださらないかのように思えてしまった時が、彼らにはありました。
アブラム(後のアブラハム)の妻サラは、自分が身ごもらないの で、アブラムに仕え女のハガルを与えます。そしてハガルから生まれた子供を自分の子にしようとします。
アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。 彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれ た。アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。(創世記十六章一~四節)
またレアとラケルの姉妹は、ヤコブの妻となりましたが、姉のレアには子供が与えられるのに、ラケルは自分が身ごもらないことで、忍耐を切らし何とか自分たちの力で状況を変えようとします。
ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。ラケルはつかえめビルハを彼に与えて、妻とさせたので、ヤコブは彼女の所にはいった。ビル ハは、みごもってヤコブに子を産んだ。(創世記三章一~五節)
神様は、それらの全ての人間の知恵、計略によらず、神様ご自身の知恵と力とタイミングによって、その御約束を果たされます。しかし、アブラハムとサラ、ヤコブとラケルにとっては、神の約束を見るのは、長い年月であり、しかもアブラハムとサラは老齢でありました。なぜ、神はその約束をすぐに果たされなかったのでしょう?それは恐らく、人の力や努力によらないことを示すために、神はあえて人には不可能である状況を用いられたのではないかと思います。
私たちは、自分たちの状況を改善するために、自分たちの力で出来る限りのことをしようとします。神様はそうした努力も省みられ、その願いと努力に報いてもくださいますが、私たちは、神様にもっと信頼することが必要な状態がしばしばあると思います。私たちは、あまりにもせっかちになり、「神様、あなたはどこにい るのですか?なぜ何もしてくださらないのですか?」と、自分の限られた視野で神様のしておられることを裁き、神様に見切りをつけるのです。そして神に信頼 する事をやめ、自分の力で何とかしようとあらゆる手を尽くすのです。
アブラハム、ヤコブとその妻たちは、自分たちの手の内の力を行使し、奴隷や仕え女に命じて子孫を残そうとしました。しかし、神は私たちの奴隷でも、しもべでもありません。
私たちに命を授け、今、この地上におらせてくださっているのは神なのです。私たちは、神の前に謙って、主のなそうとしておられることに信頼し委ねる必要があるのです。
ところで、イサクの場合ですが、やはり妻リベカも、子を産みませんでした。その時、イサクは、神に祈り求めました。
イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。(創世記二五章二一節)
イサクの場合、彼の信仰の祈りにすぐに神様が応えて下さり、子が与えられることは、神様の御心にそったことでした。しかし、アブラハムやヤコブの場合のように、神に信頼し、忍耐して待つ必要の場合もあります。
もし神様が与えられないのなら、与えてもらう以上の何か善い理由があってのことなのです。神は、無責任に約束をすることはありません。まして神には、意地悪な思いもありません。
イエス様の贖いの業をとおして、神様の御心がどのようなものであるかが明らかにされました。イエス様は神様の御心を顕わすためにこの地上にこられたのです。神様は、私たちのために御自分のひとり子の命さえ惜しまずに与えられたのです。ですか ら神様の私たちに対するお心の中に、どんな影も闇も存在していません。
わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光で あって、神には少しの暗いところもない。(第一ヨハネ一章五節)
<世の光であるイエスに対して、嘘の父であるサタンは、たとえ義の使者のように光の天使として擬装しても、そこにある闇と、もたらす暗黒の実は隠しきれません-サタンの約束できるものは、良くてこの世でのひと時の安堵であり、そこには悲惨な結果が伴います-マタイ四章八~十節、第二コリント十一章十四節、マタイ十二章三三節参照>
ところで、結局、サラには約束の子、イサクが与えられました。
主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。
サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を 産んだ。アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。
アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。
アブラムはその子イサクが生れた時百歳であった。そしてサラは 言った、「神はわたしを笑 わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それ なのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。(創世記二一章一~七節)
ラケルにも自分の子供が与えられました。
神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれたので、彼女は、みごもって男の子を産み、「神はわたしの恥をすすいでくださった」と言って、名をヨセフと名づけ、『主がわたしに、なおひとりの子を加えられるように』と言った。 (創世記三〇章二二~二四節)
このように、結局は神の約束は必ず果たされるのです。どうか、私たちがこの世からしたら望み得ない状況の中にあっても、信仰を捨てるのではなく、たとえ死に至るとしても、信じ続けることができますように。<黙示録二章十節>
それによって、私たちの思いをはるかに越えた神様の素晴らしい御業がなされるのですから。
(神は)わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさい を、はるかに越えてかなえて下さることができるかた…」(エペソ三章二〇節)