因果応報

四月二一日 因果応報 (ひとしずく七七〇)

「因果応報」という言葉があります。「よい行いをした人には良い報い、悪い行いをした人には悪い報いがある。過去および前世の因業に応じて果報がある」という意味ですが、これは仏教用語だそうです。また「業(ごう)」という仏語もあります。「業」の意味も、過去の行為や成したことの結果という意味で、因果応報と同じような意味です。

何か事が起こると、大抵の人はこの「因果応報」や「業」に基づいて考えるのではないでしょうか?特に悪く思えるようなことが起こった場合はそうだと思います。確かにこの教えに当てはまることも多くあるでしょう。たとえば、健康的な生活をしているなら健康になり、不摂生な生活をしていれば病気になります。一生懸命勉強をすれば、大抵は成績は上がり、勉強をしなければ成績は悪くなります。また、いつも自分勝手に振舞うなら人は遠のき、親切に振舞っているなら人に好かれるでしょう。つまり、悪いことをすれば悪い結果になり、良いことをすれば良い結果になる、これが「因果応報」や「業」の考え方で、なるほどとうなずける面もあります。

しかし・・・全てがこの因果応報や業の考え方に合うかというと、それは疑問です。なぜなら、不摂生をしていなくても、突然病になることもありますし、生まれつき病気の人もいます。またどんなに気をつけていても思わぬ事故に遭ったり災害にも遭います。もっともこういった場合は、因果応報の考え方で言えば、前世の行いが悪かったというふうに解釈するのでしょうが・・・。

輪廻転生という考え方を私たちクリスチャンは持っていないので、前世の行いの善悪の話まで行くと、また理解しがたくなりますが、とにかく全てのことが因果応報によるのではないということは、イエス様の言われた言葉からはっきりわかると思います。

弟子たちはある時、生まれつき目の不自由な人を見て疑問に思い、イエス様にこう尋ねました。

「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」・・・(省略)・・・イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ九章二~七節)

何と素晴らしいことでしょう。イエス様は、その人が生まれつき目の見えないのは、本人の罪でもまたその親の罪でもなく(もちろん前世の行いでもなく)神様のみわざが彼の上に現れるためだと言われたのです。

私たちの身に降りかかってくる、思いもよらない災難と思えることが、神様の栄光が顕れるためのものであるなら、災難の意味は全く違ったものになるのではないでしょうか?過去のまたは前世の行いが悪くて、その結果を刈り取っているのだと思うことには、全く希望がないと思います。

確かに今、世界が病んでおり、これはこの世全体が神様の心から遠く離れ、自分勝手な道を歩んできた結果であるので、因果応報とも言える面だと思います。しかし仮にそうだとしても、神様は、私たちが生きている間ずっとその悪しき行いの結果を刈り取りながら、悲しみと苦しみに暮れて生きる人生など、少しも望んではおられないのです。神様が望まれていること、それは、ただひとつ、私たちが神さまに立ち返り、愛と自由のうちに幸せに生きることなのです。
 私たちは自分で因果応報の鎖を断ち切るために、悪戦苦闘しなくて良いのです。第一、それは無理なことです。自分で自分を救うことなどできないからです。そのために神様は救い主イエス様をこの地上に送ってくださり、私たちが過去のどんな罪からも解放されるように、その罪のあがないとしてイエス様は、十字架の死を遂げてくださったのです。
 今、私たちは過去のどんな影響からも解放されています。それは、行いによるのではなく神様の憐れみと恵みによってです。

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。(エペソ二章八、九節)

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(第二コリント五章十七節)

今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(ローマ八章一節)

私たちが災いと思えることを被る時、それはほとんどの場合、素晴らしい神の栄光が顕れる時です。私も自分の経験から、それは真実であると信じています。
 この世の闇もまた罪さえも、神様の光と愛の力を消すことも隠すこともできません。かえって、神様の素晴らしさが認められるチャンスなのです。そのために私たちが選ばれ用いられるのなら、最高の栄誉ではないでしょうか?
  どうか、因果応報という解決策のない苦しみに囚われることなく、過去の過ちをすべて赦し、私たちのすぐそばにいて、共に新しい歩みをしてくださるイエスさまの恵みのうちに生きられますように。

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。(ガラテヤ五章一節)
  わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。(ヘブル八章十二節)

他の投稿もチェック

悩みの時の砦

ひとしずく1520-悩みの時の砦  「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人 を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、こ れらを造ったことを悔いる」と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た。  ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノア はセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。...

ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分

ひとしずく1521-「有る」という方がいれば十分 この世では、人生の成功と幸福のためには、何としても肩書きや学歴が必要であると信じてい る人は少なくないようです。そして人々は、その肩書きや学歴を得るために、並々ならぬ努力と苦労とそれに伴う悩みを抱えねばならないので す。  この世で生きていくの は大変なことだな、と思いながら、私はモーセのことを思い浮かべていました。モーセはエジプトの王になるべき人でしたが、その栄光の冠、 肩書きが神によって削ぎ落とされることによって、神様に使われた人ではなかったかと思います。...

ひとしずく1508―別世界へ飛び込む

ひとしずく1508―別世界へ飛び込む (このお話は2014年に書かれたものであることをお伝えします。) 私たちは、自宅から車で一時間ほど行った町に、ひと月に一度かニ度買い物に出かけるのですが、私たちの場所から十キロメートルも車を走らせると、そこはもう雪が全く見当たらない別世界となります。昨日も、母を病院の定期検診と買い物に連れて行ったのですが、いかに自分たちの所が他に比べると雪が多い地域かということがわかります。...