災いは罰? 

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2023年2月15日

 「ひとしずく」ーーひと昔編

朝食の時、突然母がこう言いました。
「もしかしたら、父さんに、 ご飯あげないからではないか・・・」
 彼女は、口数の多い人ではないので、そのことが余程心にひっかかっていたのでしょう。私が理由を尋ねる間もなく、母は続けて言いました。
「愛ちゃんが捻挫したし、普段風邪をひかない自分(母)がひいたし、お前(私)もひいた。それにガスストーブの調子も昨夜悪かったから。お前たちは、 感謝しておいしいもの食べているけど、お父さんには、食べ物、一回もあげてないだろう?」
 そこへ、一昨日雪かきをして捻挫した娘の愛が、びっこをひきながら部屋に入ってきて、話はそこで中断しました。私はトイ レに行きたかったので、その部屋から出ました。トイレの中で、主は私に、これはチャンスだと教えてくれました。これは母の心の中にある純粋な質問、あるいは先祖を大切にしてきた日本人であるなら誰もが持つ疑問だと思います。そのことについて母に話す機会が与えられたのです。
 部屋に戻ると母は、また先ほどの話の続きで「だから、食事をする前には、祈るだけじゃなくて、お父さんに食べ物を持って行ったらいい」と言いました。子供たちは、食事を食べるのを止めて、じっと母と私との成り行きを見ていました。
 私は後でゆっくり、母と二人きりの時に説明しようと思っていたのですが、再び母に言われたので、その場で説明することに なりました。

「お母さん、親や死者を敬う気持ちはわかるよ。 お父さんが毎日働き育ててくれたことを自分も感謝しているから。でも死んだからと言って、人間は神様のような拝む存在になるわけじゃないと思うよ。第一、もともとお釈迦様は、死んだ人を拝むようには言わなかったんだよ。(インドで始まった仏教は死者を拝むということはなかった。というより、釈迦は、魂の存在はなく、死んだら人間はそれで終わりだと説いた。その後、仏教はゾロアスター教や密教、そしてキリスト教など の影響を受けて変化し、日本に入ってきた仏教も日本特有のものだとのこと)
 そして本当の神様は、ご飯をあげなかったからといって罰を与えるような方じゃないよ。また神様を信じているからと言って、長生きすると か、何も災いに遭わないということでもない。誰にでも災いは起こるし、良い人でも信仰深い人でも、そうでない人より早死にすることもある。神様は私たちに罰を当てるのではなく、むしろ、その災いを益に変えてくれるんだよ。
 もちろん、みんな悪いところがあるから、赦してもらわないといけないけれど、十字架にかかった神様を拝むのは、罰が当たらないようにではなくて、イエスさまが罪の身代わりになってくれたからだよ。」
 母親は、もう一つ「周りの人がどう思うか?」という質問をしました。
 私は「神様を信じるということは、自分にとって生き方そのものだから、人がどう思うかを気にしては生きてはいけない」と答えました。
  母は目を閉じてじっと聞いていました。そして私は話を止めていましたが、それでも母は、まだ目を閉じたままでした。私は、仏壇に食べ物を 供えたら、父親への感謝と尊敬を示すことになるなら、それをしてもかまわないのではとも思いますが、しかし、食べ物をあげないと、たたりがある、罰が当たるという考え方を結局助長することにつながるなら、 やはりしないほうがいいと思うのです。母をそのような束縛の考えから解放してあげたいと思いました。
子供たちは食卓を取り囲んで、食事の祈りをするのを待っていました。一番下の娘が「食べようか?」と持ち出し「そうだね」と言って、感謝して食べ始めようとしました。
すると母が目を開いてこう言ったのでした。「でも、何十年も同じ事してきた からな。急に変えろと言われても、変えることはできないよ」と。
ちなみに、私は一度も母に、父親(仏壇)にご飯を供えることを咎めたり、止 めさせようとしたことはありません。しかし母はきっと、心の中で感じ取っているものがあったのでしょう。
私は母に「父さんに、母さんがご飯を供えるのは自由だよ。しちゃいけないって言っているわけじゃないからね」と言いました。
しかし結局、母は父にご飯を供えないまま、祈って皆で一緒に食事を始めたのでした。
母は本当は心の中で、私の言っていることを納得し始めているのだと思います。私たちが一緒に住むようになって、母は色んな面で変わりました。そして主が、母の心に語りかけているのを感じます。
 母は、印刷したひとしずくを小冊子にする作業を、子供たちを手伝って一緒になってやってくれたりしています。また以前は、私たちが食事の祈りをする時、母は途中で食べ始めるか、あるいは仏壇に食べ物を供えに行ったりしていましたが、最近はじっと祈りを聞いて、一緒に食べる ようになり、仏壇への供え物も、いつの間にかしなくなっていたのです。
しかし母は、心のどこかで小さな咎めを感じていたのかもしれません。そこへ 滅多に風邪をひかない母や私が風邪をひいたり、愛が怪我をしたり、ストーブまで調子悪くなったりと、そんなことが重なって起こり、つい、もしかしたら、ご飯を供えなくなったのが原因かも・・・と考えたのだと思います。
日本人の考え方と して、災いと思えることが続くと何か霊的な原因があり、罰が当たったとか、厄のせいだと、お祓いをしたりしますが、母も自然とそのように捉えたのでしょ う。
私は母の信仰を批判するつもりはありません。母の気持ちもわかります。た だ、起こる出来事に対して、たたりとか罰が当たったというような恐れの捉え方で見る のではなく、全てが神の愛による計画であり、神様は全てのことを私たちの益としてくださるのだというふうに見ることができたなら、と思います。そうした ら、母はもっと自由で平安をもって生きて行けるだろうにと思うのです。
しかし、それにはゆっくり時間をかける必要があるのでしょう。
真理が母を、自由に幸せにしてくれることを祈ろうと思います。そして、いつの日か、母と共に真の神を心から賛美できる日を夢見ています。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ八章二八節)

…真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ八章三二節)

 (ストーブは、その夜以来、問題はありませんでした。吹雪で逆風の風が煙突に入って煙っていたのでしょう。幸い愛の捻挫もたいしたことはあ りませんでした。私の風邪も、何もできないというものではなく、座って、手紙を書いたり、タイプしたりするには支障がなく、普段したいと思っていたことがついに出来たことは、風邪からもたらされた益でした。母親が風邪をひいているのはかわいそうですが、脚を痛めているので、休んでいなければならないのに、どうしても雪かきしたり、台所の世話をしようとする人なので、風邪のおかげで台所も子供たちにまかせて、じっとしなければならなくなったのはよかったかなと、思ったりしています。)

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