この人が生まれつき盲人なのは

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2022年12月20日

「ひとしずく」ーーひと昔編

 聖書を見ると、主が為された数々の癒しの奇跡と共に、主の助けを必要としている人たちに主の語られた言葉が記されています。その中でも、苦難の中で戦っている人にとって、何よりも励ましになる言葉がこれではないかと思います。

 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ九章一~三節)

 その盲人が何歳であったかはわかりませんが、上記の聖書箇所のすぐ後に「あれは大人ですから」とその盲人の両親が言っているので、生まれた時から少なくても相当の年月、目が見えなかったのです。その生まれながらにして目の見えなかった理由として、イエス様は「神のみわざが、彼の上に現れるためである」と言われました。
 生まれつき彼は障害を負っていたわけですが、当時それは、弟子たちが イエス様に質問したように、本人かまたは親が罪を犯したためと考えられていたようです。しかし、イエス様はきっぱりと言いました。それは彼の罪でも両親の罪でもなく、ただ神のわざが現れるため、つまり、神様の御意志、御計画がそこにあると言われたのです。

 時々、どうしてそんなにも辛い苦難をこの人は負っているのだろうと、 思える時があります。人は何とかその理由づけをするために、弟子たちがそう考えたように、本人かまたはその先祖の何かの報いを受けているのではないか、あるいは亡くなった先祖があの世で苦しんでいるのではないか、と考えてしまいがちですが、今、愛である神を知る私たちにとっては、どう見ても、それは神様からの仕打ちのようには思えないのです。実際、神様がその苦難を許されたのは、神様の業が現れるためなのです。これは、絶望の暗闇に突然光が差しこんでくるような、とても大きな励ましであり、希望だと思います。
 神様がその人を使ってご自身の業をなさろうとしているのであれば、私たちは、自分が抱えている苦難や弱さに目を向けるのではなく、神様に期待の視線を向けるべきです。そして、不思議で神秘的な、宇宙の創造者の知恵に満ちた 御計画を間近で体験しようとしていることに、もっと興奮して期待を持っていても良いのではないでしょうか。悲しんでいる人はさいわいである。とイエス様が言われたのは、この悲しみを通して、神の慰めと愛の奇跡を体験できるからなのです。光は、明るい所ではなく、真っ暗闇の中でこそ有難さが感じられるものです。
 
この長年辛い目に遭ってきたであろう目の見えなかった男性も、絶望の淵でイエス様の業に触れ、神の慰めと愛を体験することができました。この体験はおそらく、彼の人生の中でも最も素晴らしいものだったと思います。
ところでこの奇跡は、彼をはじめ、聖書に記された人だけに起こった奇跡でしょうか?いいえ、それは現在に生きる私たちの誰にでも起こりうることだと思います。
私たちは生まれつき目が見えないわけでもなく、耳が聞こえないわけでもない、また歩けないわけでも、重い病気にかかっているわけでもないかもしれません。しかし、普通、人は誰でも何らかの弱さや困難を抱えて、苦闘しているものです。それは体の不自由さや病気といったことばかりでなく、自分の生まれながらの性格や、悪癖や依存症、また様々な人間関係であったり、仕事や貧困であったり、それは人それぞれでしょう。
 この目の見えなかった人になされた神様の業は、私たちの上にも為されます。そして、この神の奇跡の愛の業は、弱さや困難の中でしか、体験できない事なのです。ですから、私たちは、その弱さや困難に打ちひしがれるべきではありません。そして、それを恥じるべきでもなく、主に持ち出すのを恐れたり、人に知られるのを恐れるべきでもないのです。
 イエス様は、私たちが主の御許に行き、こう祈るのを待っておられると思います。

 「主よ、この私の抱えている弱さ、問題にあって、あなたはどんな業をなそうとしておられるのですか?その御計画は何ですか?どうぞ見せてください。楽しみにしています」と。
どうか、弱い私たちを強くしてくださり、万事を益としてくださる主の、全能の力と深い愛に対して、御霊から頂く確信によって、今日も一日主の恵みの内に生きられますように。
 
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き 詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(第二コリント十二章九節)

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さるこ とを、わたしたちは知っている。(ローマ八章二八節)
 

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