子供のために

j
2024年5月5日

ひとしずく1534-子供のために

  子供の日に、テレビで子供たちについての番組を見ました。子供たちが自分たちだけで自由に遊べる「秘密基地」について のものでした。
 学校と塾での勉強の詰め込みで、ただでさえ遊ぶ時間のない子供たちのために、お母さんたちが立ち上がり、都会の公園の中 に子供のための空間が造られました。子供たちによって造られるツリーハウスのようなものですが、初めは「子供たちが怪我したらどうする」 などの反対がありましたが、いくらかの危険を覚悟で、子供たちの自由な遊びの場を確保したいというお母さんたちの努力が実ったそうです。
 画一化された組織の中での詰め込み教育と競争のプレッシャー、いじめなど、子供を守り、支える必要があることは数多くあ りますが、 これは、そうした中で子供たちのための努力の結果の一つであると思います。このように子供のために立ち上がる大人がいることは、とても貴重で素晴らしいこ とだと思います。
  ところで、私たちクリスチャンの立場で、子供たちのためにどのように奮闘するべきなのか、と考えさせられました。そし て、それはやはり、子供たちの信じる心を大切にするために奮闘することだと思いました。物質主義で、精神的なことはおろそかにされている この世にあって、信仰を持っている大人が、神の言葉の真理に基づく、動く事の無い礎を、何よりも必死になって、子供たちの心に築いて行か なければならないと思います。
  人は蒔いたものを刈り取ることになります。それは私たちクリスチャンも同じことです。神の忍耐と寛容の時代にいつまで も甘んじていて、 神の御心を求めず、この世に妥協しながら生きていても、神様の前に各自が言い開きをする時が必ずやって来ます。私たち大人は、真剣に神が望まれていること は何かを常に祈り求めて、子供たちを真理の道へと導き、見守っていかなければならないのだと思います。

子供たちは成長するにつれ、本物でないものに気づいていきます。しかし、私たちはイエス様の許しの愛ゆえに、本当の希望がある ということを伝えることができます。こうした神よりの真理の礎が据えられていなくては、波に翻弄される小舟のようで、それこそ子供たちに とっては 大変な将来となることでしょう。しかし、天地を造られ、命を捨てるほどに私たちを愛してくださっている神の愛を信じる信仰が心に据えられ ているなら、きっと この混沌とした世界においても、頼ることのできる力強い神の恵みの内に成長し、神の使命を果たすことのできる充実した人生を送ることになると私は信じま す。

 「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国 を撃つことのないようにするためである」。(マラキ4:6)

 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ24:35)

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいすことと、ご自分を求める者に報いて下 さることとを、必ず信じるはずだからである。」(ヘブル11:6)
 
 「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるので ある。しかし、ど ういうふうに建てるか、それに気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイ エス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきり とわかってくる。 すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事が そのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るで あろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」(第一コリン ト3:10-15)

 「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降 り、洪水が押し寄 せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自 分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその 倒れ方はひどいの である」。(マタイ7:24-27)

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」 (第一コリント13:13)

他の投稿もチェック

義に飢え渇く者

ひとしずく1559-義に飢え渇く者 (2014年配信) 最近、Dさんに十何年かぶりに再会しました。今、彼は単身赴任 で、福島の相馬で働いています。以前、私たちの聖書クラスに来ていましたが、彼が九州に引っ越しして以来、会う機会はありませんでした。 しかし、彼が東北に来て、先月から月に 一回、私が那須にいる時に、聖書を一緒に学ぶために、彼は公休日前の日に一泊の泊りがけで相馬から那須にやってきます。仕事が終わってか ら車で来るので、那須に到着するのが夜の9時...

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...