内なるものを与える  

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2022年11月28日

「ひとしずく」ーーひと昔編


今日、思いがけない人たち四人から 電話を受け取りました。

こんなにたくさんの人たちから、一日に集中して連絡を頂くとは感謝でした。

 ある人については、長い間祈っていたこともあり、声を聞くだけでも嬉しいことでした。またメールでも、祈っていた人の近況を知らせてくれる人もあり、さらに祈りたい気持ちになりました。

 本当に、連絡し合い、お互いの状況を信仰の仲間に分け合うことは、喜ばしいことだと、しみじみ感じました。

  こうしたコミュニケーションは一体感が増し、互いのつながりを深めます。

 このことで、思い出すのは、次の聖句です。

善を行うことと施しをすることと を、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。(ヘブル十三章十六節)

 上記の聖句の「施しをすること」 は、ギリシャ語では、「コイノニア」であり、「交わり」「分け合うこと」の意味だそうです。キングジェームズ訳では、「communicate」(コミュニケート)と訳されており、それは、通信すること、さらに、コミュニケーションの原語であるラテン語のコミュニ カーレ(Communicare)は「共有する」という意味です。

 イエス様は、「ただ、内にあるものを施しなさい。そうすれば、あなたがたにとって、すべては清いものとなる」と語られました。(ルカ十一章四一節 フランシスコ聖書研究会訳)

 これは、イエス様が、内面を汚れたものでいっぱいにしていながら、外面ばかりを清く装っていたパリサイ人たちに対して、外面の行いより目に見えない心の状態に注意を払うことがもっと大切であることを指摘したものです。そして内にあるものを施す、つまり分け合うこと、共有することが大切であることを言っています。

物は与えることができても、心にあるものを分け合うことは難しいことが少なくありません。息子が今朝、上述の聖句について、「『内なるものを施す』と言っても、自分の心には与えることのできるものは、何もないな」というようなことを話しました。

確かに、私達の内側を見るなら、汚い部分が目につき何を分け合ったり、共有できるだろうか、何もないという結論に行き着いてしまうことはあり得ます。

人の心について、聖書のエレミヤ書には「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ十七章九節)とあるように、人の心には、他の人と分け合えない、あるいは分け合わないほうが良いとさえ思えるものがあります。それが人の罪ある心の状態です。

しかし、私達には、そのような暗黒の心に光を灯してくれる希望があります。イエス様です。私達の心を照らして下さるために、イエス様はまことの光としてやってきて下さいました。「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」(マタイ四章十六節 )

私達の罪をその血によって赦し、愛によって癒し、励まし、照らして下さいます。私達の内には、その愛と光であるイエス様の霊があるのです。この「内なるもの」であるイエス様を与えることができるのです。

施しても尽きる事の無い無尽蔵の愛と命の源であるイエス様を心に持っているのです。私達を愛して下さっているイエス様の愛の思い、その霊を他の人たちと共有すること、分け合うことができるのです。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(黙示録三章二〇節)

このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ(おとうちゃん / パパ)」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(ガラテヤ四章六節)

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