「ひとしずく」ーーひと昔編
今朝、友人から頂いたレーザープリンタを、何とか稼働できるように取り組む重荷が与えられました。何度か自分で使おうと思ったものの、紙が詰まったりして、うまく印刷できなかったので、そのままにしていたのです。
しかし、このレーザープリンタが動いてくれると、色々なプロジェクトに使う事ができます。それで、今朝祈っていた時、いつまでもそのままにしている私に、主は、今すぐ取りかかるようにと、突っついているように思えました。それで、私は本気で取り組んで、何が問題か突き止めたい、そして、もし修理が必要なら、いくらかかるのか、誰に連絡すればいいのか、それも全部知り出す決意をして取り組みました。
さっそくインターネットで、まずは登録しなければならない自分のEメールを打ち込んで、向こうから連絡のあるのを待つ、といった時間のかかる対応に、くじけそうになりましたが、何とか探し続けた末、連絡先の電話番号を得ることができました。そして、電話をかけて尋ねてみると、修理に来てもらうなら、相当の費用がかかるということがわかりました。
そこで、私は自分で直そうと再度挑戦し、色々やっている内に、出来ました!
再生トナーカートリッジだとうまく作動しないということが一つ、そしてもう一つは、紙の送りのローラーの汚れが問題だったということがわかりました。
結局、今日、私はこの高価なプレゼントの祝福に与ることができました。このレーザープリンタを直すために、重い腰をなかなかあげなかった私は、これを下さった人の厚意に、今まで与かることができなかったのです。
今回のこと以外にも、私は、問題が大き過ぎると決め込んだり、取り組むのを後回しにしてしまうことによって、祝福を受け損なってきたことは、たくさんあるのではないかと考えさせられました。もう少し、熱心に粘り強く、このプリンタを使えるようにと、祈ったり行動に移したりしていたなら、もっと早く、いろいろな事に使えたはずです。
今日、デボーションで、ルカの十一章五~八節までのイエス様の語られたたとえ話のところを読んで、執拗に願うことの大切さを、学んでいました。
あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、「友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言った場合、彼は内から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。(ルカ十一章五~八節)
この話を読んだ時、私は、デボーションで集まっていた子供達に向って、執拗に願うことの大切さを話していましたが、何より、私自身がこの教訓を必要としていたのです。
私は、執拗に、このレーザープリンタを使えるようにして下さいと主に求めていませんでした。そしてついに、必要に迫られて、執拗さが呼び覚まされたわけです。その執拗さが発揮できた根底には、やはり主に対する信仰、つまり主がどれだけ愛を持っておられて、私を気遣っておられる神であられるか、という信仰があったからで、その確信に主が答えて下さったのだと思います。
数限りない祝福を、主は差し出しておられるのに、私たちは、大してそれらの祝福に与ることなく、不満足を抱えて幸せでない生活を送り得るのです。どうか主が私たちの目を開いてくださり、主の愛情深さを思い出すことができますように。そしてすぐに答えを得ることができない時でも、主は必ず答えてくださる方であることを、疑うことなく求め続けることができますように。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。(ルカ十一章十三節)