「ひとしずく」ーーひと昔編
エボラ出血熱の被害が広がるリベリアで、医療支援活動に当たった国立国際医療研究センターの加藤康幸医師が、その現場の様子についてインタビューに答えていました。
WHO(世界保険機構)の予測では、エボラ出血熱の感染者は2万人を越すことになるかもしれないということです。現在、しっかりとした治療対策がないこの病気に対して、防護服や十分な医療施設、医療スタッフなどをもって対応しなければならないのですが、医療器具や防護服、また人員、施設の不足の問題に医療関係者も頭をかかえているとのことです。
そうした中でも、やはり犠牲的に医療に携わろうとする人たちも少なくないそうです。疲れた身体と、不足した器具や防護服では、自らが感染してしまうことになり、実際、医療関係者が感染して死亡してしまったケースも少なくありません。患者を救いたい思いが強くなり過ぎ、自己犠牲を払う事にも、警戒が必要なようです。それで「ヒーローになるな」と、加藤康幸医師らは、毎朝、自己犠牲の自制を確認し合っているということです。
つまり、死んでしまっては何の役にも立たない、自分たちは、生きて医療活動を継続しなければならないという意味なのでしょう。
非常に困難な状況に置かれた医師達のこの知恵の言葉は、以下の聖書のイエス様の言葉を深く理解する鍵ともなると思いました。
それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思 う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ九章二三、二四節)
十字架は死刑道具であり、死を意味しています。しかし、この聖句で、イエス様は私たちに死ぬようにと言っているのではなく、自分の意志ややりたい事に固執する思いを捨てる こと、自分が善かれと思い込んでいることを見直し、そして神の意志に従うことを言っているのです。それが自分に死ぬこと、十字架を背負うことです。主は私たちが、早く死になさいということを言っているのではなく、生きて日々イエス様に従って行くことを望んでおられるので す。それは、自分の目にまた他の人の目に、善しと思えることをして、ヒーローになることでもありません。そうではなく、かえって、目立た ないことをやり続けることが神からのその人に対する召しであるかもしれないのです。華々しい成果を挙げたい、人に認めてもらいたい、あるいは人を助けることについてさえも、神の望まれる方法に従って、日々、 奉仕し続けるということであると思います。
そうした、隠れたことを行い続けている人たちに神様の保護と、供給と祝福がありますように。また私たちも、神様の導きに日々従っていくことができるよう助けて下さいますように。